「富豪家と宗教」
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時事新報に掲載された「富豪家と宗教」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
富豪家と宗教
今の文明果して眞の文明なりや否やは言ふを須ひず所謂文明の我國に進歩したる以來人心ますます宗教と離隔して殆んど相關せず宗教のことは一切無頓着なりと云へば恰も卓見なるが如く信仰などとは愚夫愚婦の痴情として故らに擯斥する者少なからず滔滔たる半解者流に在ては徒に人の手前を氣取るものとして深く咎むるに足らざれども歴歴たる富豪大家の身を以て亦これに傚ひ宗旨の如きは眞宗なり禪宗なり將た神道なり吾に於て擇む所なしと稱し大切なる葬祭にも唯時の便宜に從ひ或は佛葬し又或は神祭して勝手に神佛を混淆し其平氣なるを以て得意とするもの我輩の屡屡見聞する所なり左れば其葬祭を華美にするも唯漫然時節の流行を追ふて豪奢を競ふのみ敢て神社佛閣に蓄財を喜捨して祖先の冥福を祈るにも非ざれば亦自から宗旨に身を固めて後生を願ふにも非ず隨て神佛も弘布の力を失ひ擧世漸く無宗教の域に陷らんとするは正に今日の實况なるが如し葢し信仰は人人の心にあることなれば他より強て促す可きにあらざれども富豪大家の宗教に冷淡なるは其財産保護の爲めに果して得策なる可きやと云ふに我輩頗る危ぶむ所なき能はず抑も財力なるものは單に財力のみにして其用をなす可らず之に勞力を加へて始めて富を造る可し昔の經濟學者は專ら財力に重きを置き勞力は需要供給の原則に從ふ一の物品と視做してイツにても賃銀を以て購ふを得ることと論じたれども社會貧富の軋轢よりして今は大いに其趣を變じ資本家に勞力者と兩兩相俟つ可きものなれば資本家が勞力者に對する徳義上の關係は移りて社會上及び損得上の正則となり勞力者に對して遠慮注意せざる可らざるに至りたると均しく勞力者の氣■(「ほのお」+「炎」)は亦昔日の如くならずして漸く抗上の風を成しつつあるの今日に當ては大家たるものは小民の心を失はざるを以て第一の要義とこそなす可けれ之を譬へば軍隊の如きものにして將校ありと雖も兵士なければ戰ふに由なし兵士ありと雖も將校に服せずんば何を以て勝利を望まんや今夫れ資本家は將校となり勞力者は兵士となりて以て生産塲裏に戰はんとするに上下互に■(ひへん+「癸」)離の有樣にては其利を收む可らざるや勿論ならん果して然らば資本家の勞力者を使役すること猶ほ將校の兵士を指揮するが如くならざる可らざる譯にして扨その方法を如何す可きや恩を以てせんか狎るることある可し威を以てせんか恨むことある可し其宜しきに處するの法は種種一ならずと雖も要するに小民の心をして粗暴に流れしめざるより先なるはなし能く柔順に能く誠直に其分を守りて全力を致さしめんとするには唯和の一字こそ大切にして即ち宗教の欠く
可らざる所以は爰にあり無智無學の小民にして若しも神を畏れず佛を信ぜずんば一朝の不平も之を漏すに勘辨なく狂奔猛逸その極まる所を知る可らず恩威も加ふるに由なく警察裁判も其終局を調和するの力なくして實に資本家の大患たる可し獨り平生宗旨の信心ある者は冥冥の裡に和意を養成せられ資本家に於て慘虐をなさざる限りは自から暴發するの懸念なくして之を御すること甚だ易し是れ皆宗教の賜にして資本家の財産を安全に保護す可き屈竟の功徳なれば自家の信不信は暫く敢て問はず最も直接の關係ある財産の爲めに此宗教の弘布に力を盡さずと云ふの理あらんや既に盡力せざる可らざる上は夫子自から先達となり部下の小民を率ゐて信心を固む可きは勿論成る可く財力を抛ちて神社佛閣の費用に供し其靈光を顯はすの心構こそ肝要なるに豈圖らんや實際の状態を顧れば宗教無頓着を得意としてますます其衰頽を待つものの如し宗教の衰頽は取も直さず自家の財産の危險に近寄るものたるを解せずとは誠に不念の限りと云ふ可し宗教の信心は一朝夕の養ふ所にあらず富豪たる者今より早く心して宗教擁護よりは寧ろ財産擁護の爲め篤と分別ある可きものなり