「・日本絹織物に禁止税を課するの説」
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時事新報に掲載された「・日本絹織物に禁止税を課するの説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・日本絹織物に禁止税を課するの説
我國の貿易が輓近十年閒に二倍五分餘の額に達し其品柄の增減を見ても内國殖産の隆盛に赴くを窺ひ見る可き次第は過日來の實業論にも記したる所にして從前生絲は輸出すれども絹織物は迚も覺束なしと云ひしものが近來羽二重、縮緬、手巾等の製造輸出は非常の額に上り絹織物貿易の前途春洋々たる光景は痛く米國の同市場に影響を與へたるものと見え絹織物工場の盛んなるより目して米國の里昂府とも呼ばるゝニユーゼルシー州パタソン府の近刊新聞は「日本に注目せよ」と題して左の如く論じたり
我米國の綿業家は眼を西方日本國に注ぐを要す。我國紡績業の最大強敵は英に非ず佛に非ず獨に非ずして獨り日本國に在り我國の海關税率は以て歐洲の絹業に對し得べきも工業の廉なる日本國との競爭に堪ふるものに非ず既往十二年閒沈默の姿に打過ぎたる日本人は今や大に活眼を開き我パタソンの絹業を侵害したること少々ならず曾て我精良なる製絹機械の圖面を携へ歸りし日本人ありけるが其頃は之を用ふる法さへ知らざりしに今は却て其機械を同國に實用するに至れり
右の結果は漸く實際の上に現れ我地方に於て年々莫大の製産額ありし絹手巾の如きは昨年大に其額を減ずるに至れり實に彼の日本國は一般絹物の輸出を擴張したるのみか手巾の如きは百零六萬五千六百七十九ダースの多きを我に輸入し已に業に我手巾工業を壓倒し得たり此勢を以て進んで止まざらんか他の絹業に及ぼす可き影響は今より想ひ見る可く愈々此くの如くんば日本絹織物に對し我等關税率を高め所謂禁止税となすの必要を見る可し而して税率の增加は彼我兩國工業の差を標準として定めざる可からざるものなり
以上の記事は日本絹業の進歩を説くと共に自國の絹業者を警戒し結局其絹業を保護するが爲めには右樣の禁止説も敢て厭はざるの意を示したるものにして米國の里昴と云はるゝパタソン府新聞の記事とあれば我絹業者の輕々に看過す可きものに非ず抑も昨年中我國より巨額の絹手巾を輸出し米國絹市場の値を下落せしめたるは事實にして彼の絹業者が其勢を他の絹物にも及ぼす可しとて憂慮するも故なきに非ず而して其憂慮の大原因を尋れば誰人の胸にも浮かぶ如く我邦が生絲に富み比較上工銀の廉なる等の故に非ずして米國内地絹物の需用半々其區域を擴め其種類を增し停止する所を知らざるものあるが故なり現に十餘年前まで絹蝙蝠傘、絹襟卷など用ふる者は米國にて一部分の人に限れることなりしに今は殆んど一般に用ふるまでに成り行けるを見ても知る可し米人の恐れて守らんと欲し我々の奮ふて進まんと欲する所以のものは實に茲に在り從來我國の絹業者が米國に對する身構は如何にもパタソン記者が諷せし如くにして申さば陰に進み陰に賣るの趣ありしが米國の同業者は已に我を以て經濟上の公敵となすの今日、我國の同業者も正に陽に進んで陽に爭ふの覺悟なかる可らず顧みて我邦製絹家の實際を察するに果して彼の記者が評判する如き程度に達したるや如何、心元無き次第にして機織器械の如き善は即ち善なれども改良の餘地尚ほ綽々たるには非ざるか、機械に精通せる人に就て深く研究したることありや、原料の撰擇染色の善惡を始め起業上の技術に於て尚局外者の喙を容るゝ所は無きか、次に販賣上に於ても我國人の通弊として外を忘れて内に競ひ物品を粗惡にして信用を落すの憂あり數へ來れば前途我國絹業者の奮發を要する點少からずと云ふ可し聞く所に據れば前記パタソンの地たる廿餘年前迄は水運の便ある一村落に過ざりしが今は巨大なる數十の機業工場を起し自から米國の里昂と稱して歐洲より輸入の絹織物を減殺し尚ほ進んで日本を放逐せんとす。壯んなりと云ふ可し畢竟本業の學理を疎かにせず世界の經濟を忘れざるの致す所にして我國同業者の好き鑑にこそあれ、云ふ迄もなく米國は世界の大國富國にして發見四百年祭を擧ぐるの今日に於て其人口已に二千五百餘年を經たる我國に一倍半ならんとす今後益々人口の蕃殖すると共に富も亦增殖し絹織物の需用愈々多かる可きは分り切つたる事柄なれば我當業者は此際深く心構を定め内は商方機業を改良して彼の嗜好に投じ外は品物の美、價格の廉を以て彼の當業者と競爭し終に我織物をして米國市場に必要缺く可らざること今日の生絲の如き地位を得せしめざる可からず此くの如くなれば右の禁止税云々の事の如きは云ふ可くして行ふ可からざるの一説たらんのみ米國は將來無限の貿易市場たることを覺悟して今後益々油斷なからんこと當業者に向て我輩の呉れ呉れも注意する所なり