「有爲の商人國を利すること大なり」
このページについて
時事新報に掲載された「有爲の商人國を利すること大なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
有爲の商人國を利すること大なり
昨年十二月鬼籍に入りし北米合衆國の金穴ジエーグールドに就ては議論紛々たれども過半は之を攻撃するものゝみなりしが爰に或る英字新聞に見えたる匿名の投書は所論奇拔なるのみならず味ふ可きものあり其文の大意に云く
グールドを讒謗罵詈するは當世の流行禮式となりて此禮式を信奉せざる者は外道視さるゝの觀あり畢竟するに此金銀世界の英雄を罵詈する人々は純正の德義と商賣上の德義とを區別する明なき一種奇人の群にして若しも商賣世界に此奇人の奇説を應用したらんには到る處、身代限の聲を聞くが如き奇觀を呈することならん自家の賣物に就て正味の實を語り其賣子をして主人と同樣に實を語らしむるを以て主義とせる商賣人は唯失敗の外ある可らず而して其失敗に由て生じたる害惡は此人が正直の德義を守りて世を利益したる所の功德よりも大なる可し商賣の祕訣は虚言を語るに在り誣告するに在りとは今更物珍らしく云ふにも及ばざることにして例へば德利に貼りたる貼紙の功能書も虚言なれば買手を誘引する廣告の文章も虚言なり製造所より出す引札の文句も僞なれば店の番頭の言葉も僞なり然るに此商賣上の虚言僞を以て不道德なるが故に止めにす可しと咎立て
するが如き人へ商賣の事を談ずるは喩へば哺乳兒に經濟論を説くに異ならず唯無益の勞と云ふ可きのみ巧に貨物を持囃して其物の眞の品質よりも良く誣告し巧に公衆を誑かして成丈け雇人の給料を減ずるは商賣に缺く可らざることにして此方法に依らずして事を擧げんとする者は其競爭者と拮抗すること能はざるが故に不德義を爲すか、破産するか、二者その一を免かる可らず商賣競爭の爲めに犯す不德義は實に甚だしき度にまで推及ぼしたるものあり其事例を示さんに幾百萬弗の資本を運用して三百人の婦人さへ賣子に使ひ居る大商會にして是等の婦人に生活す可きほどの給料を與へざるものは亞米利加に少からず彼の婦人等が下宿食料は四弗より五弗なり然るに給料は僅に一弗五十仙より三弗なり尚ほ其上に衣服は奇麗ならざる可らず容色は美ならざる可らずとの要業あり餘は曾て此種の商會に關係ある或人に就て其雇婦人の給料を增すことは出來ずやと質問したる
に左る寬仁の商策を施しては他店と競爭す可き計算立たず身代限するに至る可しと云へり左れば斯る商會は純然たる不德手段に由て成立する者なりと云ふの外なし其次第如何と云ふに三百婦人の飢寒は即ち之に賣淫の機會と奬勵とを與えて彼等の品位を沈落せしむるものなればなり商賣競爭の不德不義を釀したる次第は多言を要せず彼の英國諷世の文學者サツカレーが「裁縫を職業とする女子の婦德を汚す男は人閒世界の慈善者なり」と冷言したる時よりも今日の商店婦人の品位の方、遙に劣りたりとの一言以て證するに足れり商賣社會に取引上の德義ある可きは無論のことにして假令ひ商賣外の人にても同樣に約束信用の貴きを覺ゆることならん今更ら物珍らしく喋々するに足らずと雖も凡そ人閒世界に如何なる職業を執り如何なる地位に居る人にても商賣に固有する不德義の影響を被りて之に汚されざるものなしとの一言は確にして爭ふ可らず現に餘に向て彼れ是れと議論を試る所の善知識輩が英僧ファルラー上人の著書を求めて版權の條約なき英國の重版物を買はんか其書籍は即ち不正品にして之を買ふは世に不正を奬勵するものなれども如何に出家沙門の無欲を以てするも故らに價の安きものを棄てゝ高きものを買ふの愚は爲さゞる可し左れども今一歩を進めて假に斯る聖人君子ありとせんか尚ほ道德上の能事終れりとするに足らず此種の聖人輩が日常使用する所の必要品は何れも皆虚言の看板を目當にし虚言の口上を便りにして買ふのみならず之を買ひながら聖人自身にても其果して虚言たるを心得居ることならん彼等が説敎を書く所の料紙、彼等が膚に着る所の衣服、彼等が足に穿つ所の靴、一として商賣の僞を勸る媒介たらざるはなし何となれば是等の物は其物の眞の性質よりも更らに良きやうに廣告し誣告しあるが故に其まゝに許して之を買ふは取りも直さず人の不正を勸るものなればなり左れば商賣の目的は錢を得んが爲めに事事物々を僞り誣告するに在りとすれば宗敎の力能く商賣社會を支配すと云ふも今の實際には殆んど無力無效なるが如し斯る寂しき有樣にてありながら之を目して其功德既に洽しと稱するは宗敎に對して不敬なりと云ふ可し或人は案を叩て論じて云く昔の羅馬人こそは能く宗敎の主義に隨ふて商賣を爲したりと餘は斯る説に對して議論するの暇なく此役目は寧ろ之を乳臭兒に讓らんとするものなり夫れは扨置き本論に立歸て論ぜんに天稟の奇才には窮屈なる宗敎の道德よりも尚一層廣大なる道德のあるあり蓋し大事業を擧る偉人の所業には常人の眼を以てすれば一見先づ其不德に驚く可きほどの形跡ありながら其實は幾年の後に至り大に國家を利して大功德の事を成したるの實例甚だ少なからず又かの功德を成すや知らず識らずの際に自然に出來ることなれば當局の偉人は自ら心付かずして永久不變の原則に從ひ德義上に運動する者と云ふ可し例へばグールドの事跡を以て説明せんに餘は其むかし北米合衆國西部諸州の百姓が玉蜀黍を船に積みて外國へ賣出すよりは自宅用の薪として消費する方、利益多しとしたる時を記臆せり餘が現に此焚火に身を温めたるは毎度の實驗あり然るに爾來これを一變したるものは何ぞや亞米利加の鐵道なり誰か第一に此鐵道の仕組を工風して始めて實際に有效のものたらしめたるやジエー グールドなり畢竟亞米利加をして荒茫たる原野よりして商賣繁昌の土地たらしめ薪の玉蜀黍を變じて重要なる輸出品となし幾千萬の人を飢渇より救ふて社會を平温ならしめたる救世主は是れ斯のグールドなり然るに此救世主は濟世の偉業を成就す可き權力を得るに就き僅々二三千の愚物をして破産せしめたり又かの破産者も順良にして無辜の羊の殺されたるが如きには非ず其中の資力ある者共はグールドに敵對し其一身に仇し遂に叶はずして敗北したる輩なり扨もグールドは彼等を破産せしめて六千萬の人民を怖る可き財政困難より救ひ得たることなれば今の商賣社會はグールドを讒謗罵詈する代りに當に之が爲めに喪服を着けて哭す可きなり云々
右は快活なる議論なりと雖も亦傾危の嫌なきに非ずと難問する者あらんかなれども凡そ初より國の大利を成さんとして之を成したる例は甚だ少くして多くは唯一向一心に自利を營まんとするの熱に乘じ圖らずも國の大利を成したるもの多きに居るとの次第は事の實
際に違はざるが如し事柄は異なれとも英國の碩學ハックスレーが理學の五十年と題したる論文の中に左の一説あり
形態理學(フヰジカル サイアンス)の歴史を鑑むるに天然の妙機を研究する所の天稟の奇才をして自から進んで無限の艱難辛苦を嘗めしむるものは其研究に由りて人閒を利する其利益の大なるが爲めに非ず世益一偏の爲めに辛苦したるの事例は古來未だ之を見
ず今後亦かの例なかる可し畢竟彼等の心をして勃然として自から禁ずること能はざらしむる所以のものは知識を愛すればなり、昔の詩人に由て推敲せられし所の事相の原因を發明するを悅べばなり、卒爾として見る影もなき我々生物の生涯が兩閒に暫時の活劇を演じ居る所の極大と極小との終に包括し得可らざる不可思議の兩淵に向て絶えず原則と秩序との領分を推廣むる働に就き無上の快樂を感ずればなり、此働の進路に於て形態學者(フヰジカル フヰロソファー)は或は有心の時もあれども多くは知らず識らずの際に事實有效有益のものを人閒世界に出現せしむることなり之が爲めに利益を得たる凡俗の歡喜は實に甚だしく歡聲沸騰して一時學問の功德を拜すること鬼神の如くなるのみならず其餘瀝は職人の給料となり資本家の富に變ぜられて浮世の春を成し居る眞最中に理學研究の波の水先は茫々無邊不可思議の洋上に向て遙か彼方へ進みつゝあるなり
電氣の發明も電氣燈となりて嚇灼たる光明を人閒界に放つに至り始めて人の喝采を博し勢力恆存勢力變形の説も今正に水力を變じて電氣となし世界の耳目を驚かしつゝあり素人には荒唐無稽と見えしバクツリチロジーも今は乃ち幾多の肺病患者をして其恩澤を感謝せしむ其他理學の世を益する例は枚擧に遑あらずと雖も宇宙の一微塵たる人閒の濟度を以て理學最終の目的なりとするは大なる誤にして所謂民利國益の如きは唯是れ理學研究を以て自ら禁ずること能はざる一種の好事熱心より生じたる偶然の賜たるに過ぎず然るに彼の實際論者と唱ふる種族が今日唯今直に國益たらざるものは無益の事なりとて己の眼界の淺小なるに任せ究屈なる國益論もて形態理學者の運動を束縛せんとするは實に長大息す可き限りなりハックスレー氏は尚ほ論じて云く
世界の進歩に大段落を成すが如きは單に知識を渇望するが爲めの故に自から之を求むる所の人々に由って成されたり、成されつゝあり、又成さる可し固より此種の人なりとて一般の世人に等しく弱點なきにあらず過誤もあらん自負心もあらん猜忌の念も亦ある可しと雖も其私心の如何を以て何程に其人の品位を汚し聲價を低くすることあるも此重要なる終局即ち世界の進歩に大段落を成す働は是等の缺典を償ふて尚ほ餘あるなり
今彼のグールドの如き商界の群雄を見るに彼等は財を聚めて財を散じ其閒に利益を營む働を以て一種の技術となし營利の極は終に其得る所の實利益よりも之を得んが爲めに自から辛苦する其辛苦を悅ぶこと猶ほ彼の理學者が研究の辛苦を樂むの情に異ならず或は之を評して苦即樂と云ふも可ならんか、大實業家の運動を束縛する道德論者は形態理學者の經綸を語るに足らざるなり左れば今日大に國の富源を發せんとする雄略あらん者はグールドを責むるに寺門流の小道德論を以てして僅々二三千人の破産を云々することなく此雄商が自から知らずして六千萬の米國人を利したる理學の大發明者にも劣らざる其功德を稱揚するこそ穩當なれ我輩は今日對外商戰の最中日本にグールドの生せんことを祈る者なり