「・傭吏の始末」
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時事新報に掲載された「・傭吏の始末」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・傭吏の始末
從來政府の傭吏は官制通則の規定に據り文武官俸給豫算の定額内に於て使用したることなれども本來文武官に非ざる傭の給料を其定額内より支給するは憲法の旨に背きて穩當ならずとの説もありて或は傭の給料額は既定歳出外のものとして議會の自由決議に任するこ
とゝなる可しと云ふ此説果して事實にして其給額を議會にて議するに至らば節減を見るは自然の勢にして隨て傭の人員も大に減ぜらるゝことならん明治二十四年の調を見るに中央各官廳に於ける傭の人員は一萬三千七百六十六名その年俸は百五十一萬三千九百三十二圓、警視廳北海道廳及び各府縣に於ける人員は七千百三十四名、年俸七十五萬九千八百十六圓にして合計二萬九百名、二百二十七萬三千八百八圓の數なれども元來傭の任命は判任官と異にして定員の制限なきが故に事務の必要に據りて隨意に雇入たるものも少なからずと云へば今日の現在に於ては必ず前記の數に超えたることならん然るに今後議會の自由決議と爲りて假りに其巨額の三分二を節減せらるゝとするも即ち百萬圓以上の金額にして其節減の爲めに解雇せらるゝ人員も幾千人の多數に及ぶことならん扨此幾千人の者が一時に職を解かれて其行先は如何と云ふに何れも相應の智慧才覺ありて一廉の役に立つことならんと雖も官吏登用の關門は尚ほ甚だ嚴重にして容易に入るを許さゞるのみか官制には自から定員の制限あるが故に官途の一方は先づ以て斷念せざるを得ず既に官邊の縁に離れて衣食の困難は眼前に在り廣き社會に生活の道は只實業に就くの一途あるのみにして解雇者の覺悟も定めて此邊に在ることならんと雖も扨實業に必要なるは資本にして假令ひ知惠才覺あるも嚢中無一物とありては如何ともす可らず先づ其資本を得るの方便こそ最も急なる可し然るに顧みて一方を見れば日本の社會は資本に乏しからざるのみか寧ろ遊金の多きに苦しむは目下の情態にして此頃府下に在る二三の大銀行が預金の利子を引下げたるを見ても一班を知る可し或は昨年生絲の貿易に一時に三千萬圓の金を外より得たるは目下の遊金を見るの原因なる可しなど云ふものもあれども日本の金融市場に三千萬圓は計ふるに足る可らず國中幾億千萬の資本は空しく遊金と爲り世閒に逍遙して其用處を得ざるより多少の利息にても皆無には勝れりとて銀行の預金を多くして其利息の割合を低下せしめ商賣社會には本來無用の長物なる公債證書さへも頻りに人氣を催ほして昨今の騰貴を致したる次第なれば日本の金滿家は社會の全面に溢るゝ程の大資本を有しながら其用處を得ざるに苦しむものと云ふ可し斯くの如く一方には相應の技倆を有し業に就かんとして資本を得るに困難するものあり一方には資本を投ぜんとして用處なきに苦しむものあり若しも此兩者をして相投合せしむるときは双方互に相利して實業の振起は疑ある可らず其機會は早晩必ず到來することならんと雖も目下に於て其投合の容易ならざる事情は外ならず一方の企業者には相應の智惠才覺あり又その目的は云々にして確實疑なしとて充分に之を説明するも一方の資本家は何分にも其人に信用を置かざるの一事にして其双方の閒、次第に相近つきていよいよ相投合するの機會は尚ほ數年の後に在りと云はざるを得ず誠に堪へ難き次第なれども是れ又自然の成行にして漫に急にす可らず少しく氣を永くして其機會の到來を待つの外なしと雖も只心に關するは其閒の始末なり近來東京の不景氣は世人の一般に唱ふる所なるが其不景氣とは小商賣の繁昌せざることにして原因は種々なる其中にも彼の官吏の俸給十分一減の影響の如きは最も著しきものと云はざるを得ず蓋し十分一減の總額は百萬圓餘に過ぎざれども之が爲めに一般の官吏社會に儉約の風を催ほしたる其結果は不景氣の原因を爲したるものなり然るに尚ほ其上にも傭吏の給額に百萬圓以上の減少を來すこともあらば其傭を解かれたる幾千人の當惑は申す迄もなく之が爲め府下の繁昌に及ぶ所の影響は如何なる可きや容易ならざる出來事と云はざるを得ず其始末は世人の宜しく注意す可き所なり