「領事の人撰」
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時事新報に掲載された「領事の人撰」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
領事の人撰
我政府にて外交官たる公使を撰任する趣を見るに必ずしも其技倆經驗を以てするに非ず情實の爲めに人に地位を與ふるの必要を專らとして人物の適否の如き敢て問はざるは從來の慣行のみならず今日と雖も亦然るが如し外交上に公使の任は重くして其人物の大切なること勿論なれども近來日本政府の對外政略は專ら退守を旨として條約改正の如き當分は先づ以て着手の樣子も見えず外交上都て平穩なるが如くなれば特に拔群の人物を外に駐在せしむるの要もなかる可し左れば其撰任方法の如き別に論ずるに足らざれども只爰に論ぜざるを得ざるものは在外領事の任用法なり抑も領事は外交官に非ず其職種は駐在する國々の商賣實業の景況を仔細に視察し之を本國に報告して一般の參考注意に資し又本國商人の爲めに其方向を指示して以て貿易上の利益を謀るに外ならず目下我國に於て海外の貿易は最も大切にして次第に國人の注意を起し次第に隆盛に赴かんとする折柄、海外に在りて其視察を專門とする領事の職務は非常の重任にして最も人撰を要す可き筈なるに然るに從來政府にて其人物を撰むには或は外交の技倆を以てするの意味もなきに非ずして既に根本の目的を誤りたる其上に公使の撰任と同樣、例の如く情實の爲めにするの沙汰も少なからず本來商賣貿易の事は全く外交と別にして其道を異にするものなれば如何なる人物にても又如何なる技倆熟練ありと雖も道を異にするものゝ視察報告は全く無效ならざるを得ず況んや情實の爲めに社會尋常の事にさへ無經驗なる壯年學者の業を調ふるに於てをや殆んど之を評するの辭なきに苦しむものなり既に其目的の誤りたるを知る上は一も二もなく速に改む可きは無論或は情實の人操の爲めに強いて地位を求めんとならば今日の官制窮屈なりと雖も尚ほ多少の人を容るゝの餘地なきに非されば其人をば如何樣にもして官途の妨なき邊に養ひ置き領事の人撰に至りては特別の事として注意することと肝要なる可し然らば其人撰法を如何す可きやと云ふに前に記したる如く領事の職務は專ら商賣貿易の視察報告に在りとしていよいよ其目的を以て人撰とあれば學者士流を以て充滿する今の政府の官吏社會を見ずして更に方角を改め商業案もしくは工業家の如き其道の經驗に富める人々の中に求めたらんには適當の人物を得るに易くして事の實際に便利なる可きは我輩の敢て保證する所なり但し其任用に就ての故障は例の官吏登用法にして我輩が常に其不都合を云々するは即ち是等の差支あるが爲めなれども今日は事急にして多を望むの遑なし唯領事の任用だけを自由にして速に效を收めんことを希望するのみ聞く所に據れば近來米國にては公使全廢の説を唱ふるものありて頗る有力なりと云ふ其趣意を聞くに元來公使を外國に駐在せしむるは外交政略を勉めて國の體面を張り或は列國閒に交渉して努力を逞しふせんとするが爲めに外ならざれども米國の如きは外國との關係なきに非ざれども其關係は只管商賣貿易を盛にして國の繁昌を謀るが爲めに外ならず其目的の爲めには領事のみにて充分なれば公使を駐在せしむるの必要なしと云ふに在りて贊成者も少なからざる由なれば或は他年一日その説を實にするやも知る可らず我輩は敢て其聲に倣はんとするものに非ざれども商賣貿易は國の盛衰に關する大切の事業にして其大切なる商賣貿易の用を爲す可き領事其人の人撰は決して今の公使と同一視して情實其他の爲めに等閑に付す可きものに非ず故に我輩は當局者が其撰任を改めて我商賣貿易の爲めに適當の人物を得るの決斷あらんことを敢て勸告する者なり