「・海陸の運輸交通」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「・海陸の運輸交通」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・海陸の運輸交通

今の世界に於ける運輸交通の利器は鐵道汽船の二にして其發達進歩の如何は以て其國商賣の成否振不振を卜するに足る可し即ち西洋尚商の諸國に於いては常に此二業に力を注ぎて進歩を競ふ所以なれども日本の有樣を見れば立國の本は商賣に在りとの道理既に明白にして何人も異論を容るゝものなきに拘はらず陸の鐵道と云ひ海の汽船と云ひ其發達甚だ鈍くして航海業の如き着手以來その年月既に久しと雖ども僅に内國の沿岸を航するのみにして未だ外洋に遠征を試るの場合に至らず鐵道の進歩長足なりと云ふも官私の線路を合せて僅々一千何百哩の延長に過ぎず誠に堪へ難き次第なれども何分にも人心氣運の非なるは如何ともす可らず我輩の常に遺憾と爲る所なりしに近來社會の有樣は次第に變化を催ほし各銀行を始めとして富豪金滿家の類は何れも遊金の多きに苦しみ利息の割合は日にますます下落するのみ即ち社會に資本の增加したる徴候にして資本既に豐なれば事業ここに起らざるを得ず自然の勢にして今や國中の資本家は何れも企業に着目しつゝあることなれども扨この企つ可き業は如何と云ふに一般の人心は必ず鐵道の敷設に向ふことならん現に既設の會社の如きは線路の延長又は新設を計畫しつゝあるものも少なからずと云へば若しも今の鐵道敷設法を止めにして自由に私設を許可することゝなさば鐵道事業は續々民閒に發起して今後數年の閒に非常の進歩を見ることならん此事に就ては別に大に論する所ある可しと雖も兔に角に今後の人心氣運は鐵道の事業に向ふ可きこと自然の勢なれば苟も人爲の故障を除き其向ふ所に從て之を妨げざるときは事の發達進歩疑ひある可らず左れば等しく運輸交通の利害と稱する中にも鐵道の方は今後の望、充分にして豫想齟齬の掛念なかる可しとするも一方の航海業は之と異にして更に大に注意を要するものあり從來日本の海運は專ら内地の運送を主として沿海の航海に止まれども本來航海の目的は内に在らずして外に在り今後鐵道の敷設着々歩を進めて幹支の線路國中に縱橫するに至れば内地の運輸交通は今日までの如く海運に由るの必要を減すると同時に貿易の發達いよいよ速にして海外の交通いよいよ繁多ならんとする其上に移住殖民の説も次第に盛にして其實行を見んとするの折柄、海運をして單に内地の海岸のみに止まらしむるとは實に腑甲斐なき始末にして國の隆盛繁昌は迚も望む可らざるのみか航海業其物の前途も或は遂に如何なる衰運を見るやも知る可らず經世家の最も注意す可き所なり蓋し鐵道の事は從來の經驗もありて其有利の業たるは一般に認むる所なるが故に社會の状況一變して國内の資本に餘剩を感ずるに至れば世閒の人心は促さずして自から之に赴くに反し海外航海の業に至りては從來曾てこれを試みたるものなきを以て恰も之を冒險視して其成績を危ぶむの情もあることならんと雖も航海業の貿易商賣と共に發達するは西洋諸國の例に徴するも明白なる事實にして日本の如く東洋の好地位を占め然かも貿易商賣の多望なる國に於て其業の發達せざる理由はある可らず唯人心舊に慣れて未だ其利を知らざるが爲めにこそあれば目下の計は先づ其人心を導て之に向はしむるの手段肝要なる可し前年度の議會に於ては議員中より航路擴張案を提出したれども議決に至らずして止みたりき當時の有樣に於ては或は事情不可なりしの掛念もありしかならんなれども今日は則ち然らず自から時機到來の徴候も見ゆることなれば政府なり議會なり更に議案を提出し國庫の金を以て其業を補助し大に海外の航路を擴張するの議を決するにも至らば全國の人心は之に赴て航海業の發達を見るや疑ふ可らず文明の競爭多事の今日内には鐵道の敷設着々歩を進め外には海外の航海大に發達して海陸共に運輸交通の利器を利用するの盛事を見んこと我輩の希望に堪へざる所なり