「土耳其貿易」
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時事新報に掲載された「土耳其貿易」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
暗夜原頭杖を力に辿る頃ひ一點の燈影を遙の森に認むるほどョ母しきものはなく、東天漸
く紅にして足元の發輝と見ゆるほど安心なるはなし抑も日本近代の文明は之を耶蘇ヘ國よ
り輸入したるものにして是等の國々をば師友とも先進とも尊み交りて從て先方の事情をも
明らめたるに引更へ耶蘇ヘ不倶載天のモハメツトヘ國土耳其の如きは自から等閑に附し去
りて自から其事情に暗く恰も利害相關せざるものとして相互に近つく可き樣子とてもなか
りしにエルトグロール號の沈沒日本軍艦の派遣こそ偶然の出來事にして知らざる者をして
相知るの機會を得せしめ恰も雙方の間に良縁を結ぶの媒介たりしことなれ爾來彼の國情は
漸く我日本國人の眼に映して或は之に向て企業の念を抱く者なきに非ざれども其これを知
るや唯僅に遠林の孤燈にして四邊暗黒魑魅魍魎の有無さへ分明ならざれば進まんと欲して
敢て進むを得ず暗中佇立して天明を待つものゝ如し然るに實際の事情は前節に記したるが
如くにして原頭の風光甚だ安く魑魅魍魎の來りて人を驚かすものなきのみか却て親しき友
人こそ多ければ往て交際を開て貿易商賣を試るは正に今日の事なれども扨これに着手せん
とする者の身と成りては尚ほ一段の心配なきを得ず云く兼て機敏なる西洋諸國の商人等は
早く既に日本と土耳其との間に往來して兩國貿易の先鞭を着けたることならんとて竊に空
想を運らして躊躇するの意味もある可し自から謂れなきに非されども今日までの處にては
未だ左る事實あるを聞かず目下同國の貿易に輸入の最も多き國より順次に記せば
一 英吉利 二 墺太利 三 佛蘭西 四 露西亞 五ボルガリヤ
六 波 斯 七ルーメニヤ 八 伊太利 九 白耳義 十 希 臘
十一 合衆國 十二セルビヤ 十三チユニス 十四 獨 逸 十五 瑞 典
十六 和 蘭 十七 埃 及 十八モンテネグロ 十九 サモス 二十 西班牙
廿一 嗹 馬
にして多きは凡ろ五千五百萬圓の巨額に達せり左れども其商賣は概ね自國と土耳其との間
か或は土耳其と近國との間に營むものにして愕利匆忙日月消し易く今日に至るまで未だ日
本と土耳其との間に手を擴げたるもの無しと云ふ米、茶、絹手巾の如き既に彼等の手を經
て日本より輸入する物なきにあらざれども未だ貿易と名く可き程のものに非ず君士但丁堡
に住するアルメニヤ、猶太の小商人等が年に一二度日土の間に往來して日本雜貨類を商ふ
ことありと雖も寥々見るに足らず要するに日土間の貿易は今日尚ほ絶無と斷言し得べき實
况にして日本商人の躊躇すべき時に非ざるなり又日土間の航路如何も自から企業者の關心
する所ならんなれども是れは至て無造作なる話にして日本濱より歐洲馬耳塞迄直航の線
路安穩なるは今更ら云ふに及はず此直航郵船に乘り亞歴山得港に於て土京行の定期船へ乘
替へ積替ゆるの一事あるのみ同港より土京迄は馬耳塞へ到るよりも近くして海上亦穩かな
り地中海を斷してシブラルタルの海峽を越え一萬二千哩以外の英國と自由に取引する今
の日本に在りながら九千哩にも足らざる土耳其行を憚るの理由はある可らず亞歴山得より
多嶋海をりてダルダネールの海峽を越えいよいよ君士但丁堡に入る荷物は無論土耳其の
税關を經ざる可からず海關輸入税は同國の專賣品烟草、鹽を除くの外總べて八分にして内
國より外國へ出る國産へは一分の輸出税を課し又内國の各地相互に送付する商品にも八分
税を課するの法あり
前文の趣意を略言すれば土耳其と交際なかりしは世界文明の趨勢と日本開國の事情とに起
因し漸く之を知て未だ何事をも爲し能はざりしは道筋暗黒にして只氣味わるきが故のみ、
土耳其貿易は不思議にも非ず冐險にも非ず其不思議なるが如く冐險なるが如く思はるゝは
之を知らざるが故のみ、歐羅巴、亞細亞、阿弗利加の三大洲に跨て百十五萬方哩の地を占
め三千萬の人口を有するは純然たる土耳其領にしてボルガリヤ、ボスナ、埃及の半屬國を
合すれば廣袤百六十一萬方哩人口四千萬に垂んとす此大國にして極北の荒地にも非ず蠻民
の棲居にも非ざる以上は貿易を試みて可なり歐亞境上形勝の名都君士但丁堡は無双の良港
にして年々四萬艘の船舶を來泊せしむと云ふ此四萬艘の中に一艘の日本船あるか但しは日
本品を積入れたる他國船あるも日本貿易の釣合に於て不當にはあらざる可し今や海外移住
貿易の氣風漸く盛なる折ネ、我輩も試に土耳其貿易の一説を呈して有志者の參考に供する
者なり(完)