「非内地雜居論者に望む」
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本文
非内地雜居論者に望む
近來世間に非内地雜居論者と唱ふるものあり頻りに外人の内地雜居に反對する其論旨の大
要を聞くに外人の雜居を許すときは日本の商賣工業は彼に壓倒せられ土地鑛山等の不動産
も又其占有に歸す可し現に今日にても外人が日本人の名義を以て土地を所有し又は事業に
付て資本を投じたるものも少なからず云々とて非常に彼を恐るゝものゝ如し抑も事の是非
を論するは人々の自由にして他より之を止む可きに非ず非内地雜居論者が其非を論すれば
之に反して雜居恐るゝに足らざるの理由を明にする者もある可し結局天下の定論に歸す可
きことなれば論者が熱心に此問題を研究してますます利害を明にするは寧ろ喜ぶ可きこと
なれども然れども其論中往々事實を誤りて折角の議論も忽ち論據を失ふが如きものあるは
論者の爲めに取らざる所なり試に其例を擧ぐれば論者の中には外人が内地に下したる資本
は何千萬圓の多きに至れりなど其數を明言するものあり其甚だしきは信州なる諏訪湖畔の
製絲所の如きは現實なるが如くに公言するものあれども今信濃毎日新聞の記す所を見れば
外資借入云々の事は全く無根なりと云へり同新聞は信州にて發兌し地方の信用も薄からず
と云へば其説の確實なるは疑ふ可らず左に轉歳したるものは即ち其所説なり我輩は所謂非
内地雜居論者が今後是等の事實に就ては精密なる調査を遂げいよいよ事實を確めたる上に
て發論せんことを望むものなり
諏訪湖製絲家の寃を雪ぐ
(前略)非雜居論者は外資移入を以て國家の經濟に危害を與ふる者とし外人に内地雜居を
許すは即ち外資移入をして向後益々盛んならしむると共に内國の製造工業をして外人の手
に歸せしむるの恐れ有りと云ひ且つ其恐るべき一例として彼の諏訪湖邊に巍々たる所の許
多の盛大なる製絲塲も多くは外國の資本を借り入れ外人と共同事業を爲すものなれば諏訪
製絲業の莫大なる利益は半ば外人の占むる所と爲る、今日すら尚且此くの如し况んや雜居
以後に於てをや豈國家經濟上將た人民の生業上大に憂ふべきことならずやとて頻りに慷慨
するものあり此説は惟齊東野人の一時の傳説に止まらず上流の紳士政治家にして之を捉へ
て屈竟の適例と爲し近來頻りに之を吹聽して以て非雜居論の助けと爲すもの有りと云ふ
我輩は元來内地雜居を可とし甞て其説を本紙に掲げて敎へを讀者に乞ひしこと有り尚今後
も此事に就ては時々論ぜんと欲する者なれども今この處に於ては敢て雜居の利害論に入ら
ず、唯我輩が製絲國の人民として、將た日本の製絲業の爲に、尤も聞き棄てに成し難き一
事は前記諏訪製絲云々の談にこそ有れ我輩の取敢ず筆を執りて敢て辨ぜんと欲する所なり
蓋し凡ろ此くの如き事は從令無稽の妄説にして取るに足らざる事なるにもせよ苟くも上流
の士人にして之を實らしく吹聽する以上は未だ事實を知らざる者は或は浮と之を信じ或は
多少の疑惑を懷き獨立の諏訪製絲事業を誣ひて半ば外人の機關たるものとし、爲に諏訪製
絲家をして大に其信用を損せしめ其影響の及ぶ所又一般の製絲業を害するは勿論、内地雜
居の利害論に於ても、左らぬだに迷ひ易き人心をして益々鬼胎を懷かしむるの恐れ有り容
易ならざる次第と謂ふべし我輩豈一部製絲家の爲に之を辨ずるのみならんや實に世間の論
客をして事實を誤ること無からしめんと欲するなり
(中略)諏訪製絲家外資借入の談はもともと無稽の臆測に過ぎず單に普通の考を以てする
も之を悟ること難きに非ず、試みに思へ誰か遠方の製絲業に向つて敢て巨額の資本を貸し
渡す者ぞ、他人の事は扨置きて若し借用を論者に請ふ者有らば論者自ら先づ躊躇せん、否
躊躇せずして謝絶せん、横濱の生絲賣込問屋が競ふて製絲家に資本を貸すは普通五六分の
利子の外に他日利する所あればなり其地方所在の銀行の如きも亦外人と事情同じからず然
るに論者さへ謝絶する事に向つて外人は乃ち資本を貸すと言ふは餘りに外人を神明視する
か將た餘りに之を見くびりし言のみ普通の考へには當て箝るべからず
更に事實に據つて之を言はんに元來諏訪の製絲業は少數者が宏大なる製絲所を設けて以て
一手に巨額を産出するものに非ず一社にて二三千人の工女を使役し二三萬貫の生絲を出す
もの有れども其一社と稱するは一の合同資本に依りて全體の事業を營む者に非ず各々經濟
を異にせる若干の製絲家が其製絲を共同揚枠にて仕揚げ之を同一の荷造と爲し之に何々社
の名を附して以て橫濱へ輸送するに過ぎず故に一人にて巨額の製絲を爲し隨つて巨額の資
本を要する者は寧ろ少數にして諏訪製絲業の盛大は畢竟多數小製絲家が各々孜々として勤
勞するの結果なりと謂ふべし今明治二十五年末に於ける諏訪製絲業の統計を擧げんに
社 數 二十六社
人 員 二百三十三人
釜 數 八千四百二十釜
製絲額 十萬二千六百四十六貫餘
にして今一年百斤を製出するに要する固定資本凡そ百二十圓、營業資本凡そ二百二十二圓
五十錢(此兩資本の計算は長野縣勸業統計捷覽に據る但し營業資本は一年に數回運轉する
を得る故製絲原價とは勿論異なりと知るべし)とすれば十萬餘貫の製出に要する固定資本
凡七十六萬九千八百圓、營業資本凡そ百四十二萬七千三百餘圓、合計二百十九萬七千餘圓
にして之を二百三十三人に割當つれば一製絲家平均凡九千圓乃至一萬圓を要す、然るに諏
訪の製絲業は元來諏訪人士の特性たる勤儉忍耐の美德に依りて斯く迄發達したるものにし
て萬端成るべく質素實用を旨とし成るべく費用を省くの風習なれば實際に要したる固定資
本は右の計算より遙に少かるべく且始より自ら一文無しにして事業を創むる者有らざるが
故に實際他より借用する資本も亦前記の資本合計よりは遙に僅小の額なるべし而して此資
本を融通するには橫濱に幾多の生絲問屋有り生絲問屋は世人も知れるが如く大概屈指の豪
商にして其後には日本銀行もあれば信用ある製絲家に向ては勉めて資本を貸與せんことを
欲し又實際貸與しつゝあり左れば製絲家も賣込の事業は之を關係の生絲問屋に托し若干の
手數料を問屋に與へて以て問屋をして利する所あらしめ未だ敢て直接に外商に對して賣込
の手續を爲す者あらず、若し製絲家にして外商より資本を借り入れ或は外商と共同事業を
爲し我が生絲問屋に對しては毫も資本上の關係無きならば則ち何を苦んでか常に問屋と結
托するを要せん當に其外商と相談して直接賣込を爲すべきのみ然るに未だ敢て之を爲さゞ
る所以は固より他の原因もありと雖も問屋と資本上の關係も亦有力なる一因ならずんばあ
らず之に依て之を見るも非雜居論者の吹聽が大に事實に戻れりとの次第は略之を察するに
足らん
内人と外人との合資組織に依りて或事業を内地に營むの例は我輩も亦聞く所にして我輩は
必ずしも全國の製絲事業中に此種類の全く絶無なるを保せず然れども諏訪の製絲業に於て
は决して斯くの如き合資組織なきは我輩が事實調査の上確かに保證する所なり(下略)
(本年五月三十日三十一日信濃毎日新聞抄録)