「日本醫學の榮譽」
このページについて
時事新報に掲載された「日本醫學の榮譽」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本醫學の榮譽
我開國四十年一切の文明を西洋諸國に傚ひ着々歩を進るもの多き中にも醫學の進歩は最も
著しきものにして時に出藍の譽さへ少なからず盖し日本國に西洋醫流の行はれたるは開國
に先だつこと凡そ八九十年前に在りて洋學の始祖前野杉田大槻宇田川等の諸先生が千辛萬
苦斯道の爲めに盡したる餘澤は延ひて今日の後進生に及ぼし往々傑出の伎倆を現はす者多
きこそ國家の榮譽なれ就中近日に至りて世界中の醫學社會に名を知られたる者は醫學博士
北里柴三郎氏にして氏は去年獨逸より歸朝の後府下芝區の公園附屬地に黴菌學の研究所を
設け尚ほ政府よりも之を補助してますます擴張を謀り近日同區内に新築の計畫もある折抦、
研究上得たる所を實地に施して肺患者の全治したる者も少なからざりしが此事早くも米國
に傳聞して頃日桑港の住民フヲルスターなる人より北里氏に書を贈りて治療を乞ひけるに
ぞ遠方の患者その病症を診察せずして請合ふことは固より叶はざれども兎に角に日本に渡
來あらば親しく診斷の上病症次第にて治療を試む可しとの旨を返答せしよしなれば遠から
ぬ中に來航することならん黴菌學の研究は醫學中の新事業にして之を實地に施すものは目
下世界中に獨逸のコツホ病院と日本の北里研究所と唯二ケ所あるのみ米國人が萬里の波濤
を超へて渡來するも謂れなきにあらず既に一名の來者あり同症の患者は之を人に聞き新聞
紙に見て續々渡來す可きや必然の勢なり斯くて日本醫特得の伎倆を以て外國人の病を治す
るとあれば我國人が百般の文明事業に付き年來彼れを師として學びたる其師恩に對し今度
は恰も此方より之を酬ゆるの姿となり吾々同胞の身に取りて考れば自から愉快のみか正に
是れ日本醫術の進歩發達の事實を世界中に發揚するの好機會にして學問の一事に付き日本
國をして九鼎大呂より重からしめたるものなり我輩は單に北里博士の功勞を稱揚するのみ
にあらず日本醫學の榮譽として之を祝し又遙に我洋學の先師に向て其遺德を拜謝する者な
り依て右フヲルスター氏の來書並に封入の新聞紙を譯して左に記す
拝啓陳者本月十八日發行の桑港クロニクル新聞に於て別紙切抜きの雜報を見出し申候間
爰に封入致候尚又同日付けの同新聞一片をも同便にて御届け申上候貴君の御高名なること
は前以て聞知致居候ひしを以て右雜報は尚一層深く小生の注意を惹き申候扨その中に特に
記載しある所の病氣に就ては小生の身に其徴候あり即ち咳嗽、喀痰のことにて尚ほ又これ
に兼て六箇月の經過中に二回ほど少々吐血致候ことも有之候但し痰も多量ならず咳嗽も頻
品には無之候小生を診察致候醫者の言に外診上にては呼吸機關に何等の故障又は損傷をも
發見せざるよしなれども常に薄黄色なる唾液を試驗すれば結核の黴菌を發見せりと申居候
左れば小生は転地療養の効力如何を試みんが爲め二三週間の中に山間へ旅行の積りに御坐
候右の次第に付き爰に書面を以て御尋ね申上候は小生が日本渡航の儀は果して貴君の御考
にて然る可しと思召され候や否やを確め度き事に有之候勿論日本行は不便利且入費多きこ
とに候得共健康回復の爲めとあれば何事も妨げとは存じ不申從來小生を診察致し呉れ候醫
者は既に當府を出立し數箇月間醫學勉強の爲め獨逸國伯林府へ向け目下渡航の途中に在る
ことなれば彼と相談致候ころも叶はず小生は數月以來種々の形に製したるケレヲソートを
服用致し昨今はケレヲソートとゲンチヤナと各々十二滴半づゝ混合したる物を一日三回食
後に相用ひ居候結核病根治に付き貴君の御療法の有効なるは固より貴君の知る所にして畢
竟小生が日本渡航の儀も一身を擧げて君の看護の下に置く可しとの目的を以て思立ち候事
に御坐候果して今度の日本行を御賛成被下候得ば凡そ何日位の間日本滯在を要す可きや尊
諭を煩し度尚ほ小生に適當と被思召候事共萬端御敎示被下度一日も早く御返詞奉待候敬白
千八百九十三年五月二十二日
桑港
コンスタンチン イー エー フヲースター
北里博士
坐 右
桑港クロニツクル新聞切拔の譯文
日本一學士の大事業
望の絶へたる肺病患者の治療
北里氏の試驗の爲め日本皇帝病院を建つ
千八百八十五年より九十二年に至るまで獨逸國伯林のドクトル コツホに愛育されたる
門弟子にして破傷風の黴菌及び其治療法の發見者として醫學社會に名を知られたる日本東
京のドクトル北里は近ごろ肺結核の治療上に著しき好成績を得たりと云ふ此度オシアニツ
ク號にて東京より來着せしプロフヱソルマコーレイ氏が昨日社員に語りたる所に據れば日
本の國會は昨冬の開期に於て近時歐洲より歸朝したる北里氏をして傳染病及び其治療法を
研究せしめんが爲めに今年は四萬五千圓(三萬五千の誤)、明年及び明後年は一萬五千圓
づゝ支出することに决議せり但し北里氏は獨乙に滯在中これ等の研究に從事して評判頗る
高く大に醫學社會に名聲を博したり氏の研究したるは重に虎列剌、膓窒扶斯、實扶的里亞、
肺結核等の諸病なるが殊に肺結核の療法に就ては昨冬來の實驗に著しき成効を得たるが如
し若しも其報告にして誤らざる以上は是れぞ即ち全世界に影響を及ぼす可き至重至大の事
抦と謂はざるを得ず
マコーレイ氏の話に氏は東京を出立するに臨み一日北里氏の研究所を見物したる中、其既
に取扱ひし肺病患者の日記を見たり其患者の中、五人は二ケ月半の間北里氏の治療を受け
廿五人は受療以來僅に數週間に過ぎざる者なりし然るに右五人の中、四人は病の徴候既に
悉く消散し全治と認めたるを以て退出を命じ後の一人も殆んど全治したれども尚ほ少しく
病徴は存す又殘の二十五人も一人として多少快方に趣かざる者なし是れ等の病人は何れも
病の第二期を經過せざるものなれども茲(玄+玄)に其病勢が如何なる程度にまで達した
るかを示さんが爲めに左に一患者の容體を記す可し
一方の肺臓の働、鈍り第四肋骨の邊まで濁音を聞く
日々凡そ六十瓦の喀痰あり痰中多くの結核黴菌を認む
夜中盗汗あり
咳嗽
身體羸痩
右の如き容體は三十名の病人中最も多く見る所なり北里氏は肺病を第二期に治療するを
難しとせざれども既に肺臓に空洞を生じたるものは治療の見込なしと云へり右の病人の中
一名は北里氏方に來る前六週間病床に臥し居たりと云ふ
前記の患者は何れも始めて北里氏の治療を受け次第に快方に趣き一箇月の間に喀痰の量六
十瓦より減じて二十瓦と爲り一名の患者は體量四十八キログラム半より五十二キログラム
四分一に增加したり其他の塲合に於ても全く體量の增加せざるものは一人もなかりしと云
ふ
世界中最も恐る可き此病に斯る勝利を得たるにも拘はらず北里氏は未だ日本にて其事實
を公に報道したることなし其故は目下政府が同氏の爲めに建築しつつある大なる病院は氏
の治療を受けんとて國中より集り來る可き夥多の患者を容るゝに差支なきまでに出來上り
居らざればなり併し六月の始には右の病院も成工する筈なれば其上は氏の治療の結果も必
ず世に公布せらるゝことなる可し氏の療法は數年前世界に評判高かりしコツホ氏のチュベ
ルクリンに改良を加へたるものにして即ち改良チュベルクリンと名付る藥を皮下に注入し
て血液中に吸収せしむるに在り其藥は肺臓の健康なる部分をして病の侵害を免かれしむる
の効能あり是れに依て既に病に罹りたる部分をも次第次第に健康に復せしめ終に病根を除
き去るの工風なりと云ふ
北里氏の療法に就て最も注意す可きの要點はチュベルクリンを皮下に注入するも是れが爲
めに有害なる反動的の發熱を惹起すの恐なき一事なり獨逸にて舊名チュベルクリンの注入
法を行いたる節は必ず發熱を免かれざりしが今度新藥の治療を受けたる患者の中にて注入
の爲めに熱を發したる者は僅に一人にして且たゞ一回に過ぎず左れば患者が治療を受けた
る爲めに身體の勢力を失ひて痛く衰弱するが如きことは更になし
マコーレイ氏の説に今日北里氏の治療の成績を見て肺結核の療法愈よ發見されたりなど斷
言するは固より尚ほ早し氏の治療を受けて全治したる患者なりとて果して眞實に全快した
る者なるや否やは唯時を經て始めて知るを得可しと雖も然れども兎に角、この病に罹りて
一時望なかりし患者が今は外見上全く平癒したるものゝ如く其他悉皆の患者が日々次第に
快方に向ひつゝあるは實際に掩ふ可らざる事實なりと云ふ
北里氏は醫學社會に拔群非凡の研究者として知られたる人物にして曾て東京の帝國大學に
在りし時より傳染病の研究に心を委ねて熱心勉勵したるより遂に内務當局者の注目する所
と爲り千八百八十五年官費を以て獨逸に派遣せられコツホ博士の門弟と爲り博士と共に黴
菌學を專門として研究することゝなれり氏の歸國に臨み伯林大學プロフヱツソルの稱號を
授けられたり外國人の身を以て此稱號を得るは古來未曾有のことにして是れさへ既に異數
なる尚ほ其上に獨逸皇帝は日本皇帝の許に北里氏が學問上の功績少なからざる次第を親し
く報道し給ひしを以て其結果として氏は日本帝國の勳章を授與されたり日本の政府及び國
會は北里氏の從事する業務の大切なるを思ひ氏をして充分に其天才を發揚して人間世界を
利せしむるの路を開きたり氏が今日まで既に成遂げたる事業は决して輕視す可きものにあ
らず世界中何處に於ても氏の事業の性質を聞傳へたる者は皆その最後の結果の如何を知ら
んと欲せざるはなし