「水産の保護」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「水産の保護」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

水産の保護

世界萬國の歴史を見るに太古蒙昧の人民は何れも水草を逐ふて移轉したりと云へり盖し水

草を逐ふとは食物を得るが爲めにして即ち河海の魚類、原野の草根菓實等、天然に食物の

多き處を求めて之に就き其盡るに及んでは更に去りて他に移り轉々定めなきことなりしな

らんなれども天然の産物は自から限りあるが故に次第に人口の增すに隨て次第に欠乏を告

げざるを得ず是に於てか牧畜の必要を感じ次て播種耕作の法を工風し次第に人工を以て食

物を得るの域に進むこと人間進歩の順序にして尋常一樣の談なれども扨今日の水産なるも

のは矢張り天然の物産にして河海の廣き種類の多き目下の處にては恰も無盡藏の如くなれ

ども人口の年々增加するに隨て其需用もますます大なるのみならず人智の進歩と共に自か

ら消費額を增すの事實も亦疑なければ單に天然の産出に一任して更に意を加へざるときは

其無盡藏にも自から限りありて何時しか盡くるの期なきを得ず既に其徴候とも云ふ可きは

北海地の鮭にして從來年々の漁獲は夥しきものなりしが近年同道の開くるに隨ひ次第に其

額を減じて今後の掛念少なからざるより近來は取締の法を設け鮭兒生育の季節には特に番

人を置て漁獲を禁するに至りたりと云ふ獨り北海道のみ然る可きにあらず天然に産する水

産物は何れも同樣の次第にして永く其無盡藏を利せんとするには人爲を以て之を保護する

のみならず更に進んで大に養殖の法を講するの必要あるを見る可し抑も水産養殖の法は

種々にして從來全く魚類を産せず或は他の種類は産するも或る一種に限りて産せざる河川

又は湖水に其種子を放て之を生育せしむること日光なる中禪寺湖の養魚に於ける利根川其

他の鮭に於けるが如きものあり又は全く人工を以て魚類を製造養成すること深川近傍に於

ける泥鼈もしくは鰻の如きものあり殊に人工の製造法は容易にして相應の利益もある由な

れども就中最も利益の見込あるものは牡蠣の養殖法なりと云ふ聞く所に據れば品川灣一帶

の海面及び房總地方の海岸は全國中最も牡蠣の養殖に適當の塲所にして其方法は極めて容

易なる其上に牡蠣の需用は單に内國のみならず西洋人一般に珍重する所のものなれば鑵詰

に製して輸出するときは必ず非常の利益ある可し其有利の業たるは疑なく且これに着手す

るも易けれども唯困却の事情と云ふは外ならず折角資金を抛て養殖に從事するもの海面は

恰も共有の塲所にして他人の濫入を防ぐに由なく着手者が其利益を受くること能はざるの

一事なりと云ふ斯くては單に一個人の企業心を害するに止まらず水産業の發達を妨げて國

の利益を損するものなれば何とかして之を保護するの工風なかる可らず例へば其業を企る

者には恰も今の鑛山の借區の如く政府の筋より若干の年月を期して或る面積の塲所を貸渡

し其の期限の間は借區人に使用權を許すが如きも一法なる可し斯くなる上は當業者は其借

區海面に於て自由に養殖の事を行ひ牡蠣の繁殖が三年にて成るものなれば特許の海面を三

區に分ちて初年には種を下し次年には專ら成育を謀り三年目に至り始めて採取に着手する

の順序として年を逐ふて三區更番に利益を収るが如き工風もあらば充分に目的を達するに

至る可し單に牡蠣の一事に限らず全國水産業の奬勵保護に關しては尚ほ種々の工風方法あ

る可し幸ひ政府には水産調査委員の設けもあることなれば篤と此邊の調査を遂げて時勢相

應に法律の規定あらんこと希望に堪へざるなり