「商賣上の德義」
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時事新報に掲載された「商賣上の德義」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
商賣上の德義
文明社會の商賣を發達せしめんとならば必ず文明社會の敎育を受けたる士流學者に依頼せ
ざるべからずとは余輩の宿論にして幾回か讀者の聽を煩はしたることあり近來は我邦の商
業も漸く面目を改め殊に外國貿易の如きは日進月歩、次第に繁昌の域に入りて前途の望少
なからざる此時勢に際し翻つて内國の商賣社會を觀れば數百年來の習慣依然として舊を改
めず事業は時勢に推進せられて盛大に赴き之に當る者は舊習慣の奴隷と爲りて自から新に
するを得ず事と人と相互に齟齬して往々大事を誤るは正に今日の通弊なるが如し盖し今の
所謂素町人店者の輩をして文明の實業に當らしむるは弓矢槍劍の田舎武士を驅て軍艦銃砲
の戰塲に赴かしむるに異ならず町人利を知らざるに非ず其利を重んずるは武士の武を尚ぶ
が如くなれども如何せん規模小にして紀律立たず以て大事に當り難し就中商賣上の德義心
に乏しきは我輩の最も遺憾とする所にして今その次第を語らんに凡そ商賣上に物品の受渡、
金錢の拂方等を約して其期限を違へざるが如き又は一片の見本を示して千百の賣物に品質
を僞らざるが如き商賣社會に重んずる所の一義なれども是等は本來人間普通の德義にして
必ずしも商賣上のみに限るに非ざれば此一義を以て能事終るとは云ふ可らず然らば則ち特
に商賣上の德義とは如何なるものぞと尋るに商界の常として利害を共にする者の間には一
種の申合密約なるものありて之を守らざる可らず商戰の成敗は單に此密約を守ると守らざ
るとの間に存するの事例こそ多ければ之を守ることいよいよ固き者を稱して商德の高き者
とは名くるなり例へば茲(玄+玄)に二名の商人が共に經營して竊に其向ふ所を區畫し君
は東に我は西、以て互に相侵すなからんと約束することあり又は一時の恐慌の爲めに或る
商品の暴落を致し當業の商人申合せて暫時その賣出しを中止し以て價の回復期を待たんと
約束することあり斯る塲合に於て其結約中の一人が竊に拔駈けの不義を行ふときは一身に
利すること固より大なりと雖も所謂商德の許さゞる所なり或は相塲所の賣買にて賣を共に
し買を共にする者が竊に同謀の裏をかいて方向を轉するが如きも不德の大なる者なり又或
は會社の株主が社務を云々せんとして株主中に意見を異にし双方各々同意の者を求めて内
約を結び株主集會の席には甲説を賛成せん乙論に從はんと恰も同盟したる者がいよいよ會
塲に臨んで前説を翻へし同盟者を賣て私に利するが如き卑劣の甚だしきものにして商賣社
會の蠹蟲と云ふ可きのみ左れば商賣社會特殊の德義は申合の秘密を守りて同盟全體の利害
を謀るに在り商人たる者が此德義を全ふしてこそ始めて其社會の繁盛をも期す可けれ之を
小にして内に論ずれば當業者個々の利益、これを大にして對外の眼より見れば一國商權の
根本たるを知る可し人或は密約同盟等の文字を見て陰險の沙汰なり君子の爲ざる所なりな
ど云ふ者もあらんかなれども元來この密約なるものは啻に商賣上のみならず堂々たる國交
際の上に行はれて政治家の特に重んずる所のものなり試に目下歐洲の政海を見れば佛國は
密に魯國と相結び獨國は陰に澳地利伊太利と相契り以て列國の權衡を維持して相互に國權
を張るが如き取りも直さず政治上の密約に依るものなり若しも不幸にして其同盟中の一國
が違約の不德を犯して反覆することもあらんには全歐の平和は忽ち破れて今日の内にも千
軍萬馬の蹶起するを見る可し左れば政治上の密約は現今文明の各國をして平和保安を得せ
しむるの具にして其性質陰險に似て其成績は則ち美なり所謂不德の大德なるものにして政
治社會に曾て非難の聲を聞かずとあれば獨り商賣上の密約を咎るの理由なきのみか商人の
氣品高く商業の紀律整然として始めて能く行はる可きことなれば我輩が常に古風の町人店
者を擯けて近時の敎育を經たる新商人を渇望するも亦已むを得ざる所以なり