「印度の銀勢」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「印度の銀勢」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

銀價下落は經濟社會の一大問題にして昨今の暴落更に人心を驚破したり盖し此暴落の原因

は印度の幣制變革に在りと云ふ左の一編は本年三月英國刊行十九世紀雜誌に掲載せるアミ

ール、アリ氏の所論を意譯したるものにして特に今の銀貨問題に關係あるが故に掲げて以

て社説に代ふ

金に對する銀の價格の下落するが爲めに損害を蒙る者は印度に在勤する歐羅巴人の官吏の

み人民一般の爲めに取りては銀の相塲を二十年前の舊に復するこそ却て不利uなる可しと

は或一部の論者の主張する所なれども是れぞ正しく實際の事情を知らざる者の謬見と云は

ざるを得ず今其の次第を左に述べんに

印度の人民を大別して農民と非農民との二種に分つときは非農民は總人口の凡そ三分一を

占る割合なれども所謂農民の中、四分三以上は尋常の勞働者に外ならざるを以て余は先づ

銀の下落が非農民社會に如何なる影響を及ぼしたる歟を考究す可し今日印度人民一般の説

に今上女皇の銀貨は昔日の英王の銀貨ほど効力なしと云へり是れ即ちルービー貨が近來次

第に購買力を失ひたるの事實を云ひ表はす言にして無智の人民はこの變動を以て英國政府

の所爲に出でたるものと爲し竊に不平を抱く者も少なからず盖し二十年來穀物の相塲は非

常の速力を以て騰貴したるにも拘はらず勞働者の給料は印度國中、大概何れの地方に於て

も揄チしたるの例を見ず即ち千八百七十三年の調査に據れば農業勞働者の一ケ月間の平均

賃錢はベンガルにては五ルービー、北西諸洲にては四ルービー、プンジヤブにては五ルー

ビーなりしが千八百七十八年にも同くベンガル五ルービー、北西諸洲四ルービーにしてプ

ンジヤブのみ一ルービーを揩オて六ルービーとなれり續て千八百八十三年より八十八年ま

での間には賃錢の割合に毫も變動なく千八百九十一年に至ては寧ろ少しく下落したる位な

り其他諸工業塲に於ける勞働者の賃錢も數年來依然として變ることなく例へばミルザボー

ルなる東印度鐵道停車塲の鍛冶職人の最高賃錢は千八百六十六年には十ルービーなりしが

九十二年にも亦同じく十ルービーなり又最低賃錢も終始八ルービーにして變りたることな

し大工の賃錢も千八百七十年以來常に十ルービーに止まりて搆クなし此類の例は尚ほ他に

甚だ多しも雖も一一記載すれば際限なきを以て都て之を略す又政府に奉職する吏員及び鐵

道銀行其他の諸會社に雇はるゝ役員の給料が二十年間に毫も揄チせざるは人のよく知る所

なり而してルービー相塲の變動は如何と云ふに千八百七十二年には一志十一片四分一なり

しものが次第次第に下落して今日は遂に一志二片三十二分二十一と爲れり

右の如く勞働者の給料は毫も揄チせざる其一方に於て米麥類の相塲はルービーの下落と共

に年々騰貴して止まる所を知らず千八百七十三年ベンガルにて米の小賣相塲一ルービー十

アナ(重量凡そ八十二封度の代價)なりしに七十八年(例外の年なり)には三ルービー五

アナに上り八十三年には二ルービーに下り八十八年には二ルービー九アナとなり九十三年

即ち本年の始には三ルービー十三アナの相塲を現はし他の穀物も略ぼこれと同樣の割合を

以て一般に騰貴したり穀物の相塲の斯の如く暴騰せしは全く金に對するルービーの價格下

落したるが爲めにして印度の細民が此變動に遭ふて困苦する其有樣は實に酸鼻に堪へざる

ものあり

又銀の下落は印度の農民に利uを與ふるものなりと主張する論者の説に爲替相塲の下落す

るに從て穀類の輸出盛になる可し左すれば農民は自家の作り上げたる米麥を餘計に賣捌く

が故に利uを受く可しと云へり抑も銀貨の下落の爲めに他に原因なくして穀類の輸出揄チ

するは果して國家の利uなるや又穀類の輸出に由て直接に利uを蒙る者は少數の仲買、輸

出商人の輩に止まりて國民全體は其潤澤に與らざるの恐はなかる可きや否やは一疑問なれ

ども余は敢て深く之を推究するを欲せず唯余の所見を以てすれば印度に於ける眞成の輸出

業を盛ならしむるものは銀貨下落に非ずして他に獨立の大原因ありと信ずる者なり其原因

とは即ち世界各國を通じて近來運輸交通の方法大に進歩したるの一事なり若しも此一原因

のみ働を逞ふして銀貨下落の事など之に與ることなかりしならば印度の穀物の盛に海外に

輸出せらるゝと共に衣食住の他の必要品も一般に價を下るは必然にして人民は决して今日

の如く生計に苦しむことなかりし筈なり今日印度の輸出業の盛なるは天然正當に國の貿易

の發達したるものに非ざれば農民は是れが爲めに利uを蒙ることなし盖し農民と雖も他の

人民と同じく今日其生計に必要の品物を買はんと欲せば銀貨の相塲の高かりしときよりも

餘計の錢を拂はざる可らず就中収穫の利u揄チせるが爲めに借地料の上騰したるは農民の

爲めには最も不利uの次第と云はざる可らず今日印度農民の生計に聊か餘裕あるが如く見

ゆるは畢竟するに數年間非常の凶作なりしことゝ又近來は昔日の如く政府の爲めに農業の

所得を無理に奪掠せらるゝの禍なきことゝ此二つの原因に由るのみ是れを以て直に銀貨下

落の致す所と爲すが如きは抑も大に誤れりと云ふ可し

右は銀價下落の爲めに印度人民の蒙る損害の大略を記したるものなれども更に進んで政府

及び英人の官吏輩が近年爲替相塲變動の爲めに困苦するの状況を勸れば實に愍然の至りと

云ふの外なし今日の政府の位置を概評すれば單に身代限に瀕するの有樣にして國庫の剰餘

金は既に消失して年々の不足は唯ますます揄チするのみ今日にして政府が其放任政略を廢

止して斷乎たる處置を施すに非ざれば一國擧て分散の慘境に陷るは鏡に掛て見るが如し盖

し印度の政府は毎年英國に向け巨額の金を拂ふの義務あり即ち公債の利子、英兵駐在の經

費等の爲めに支拂ふものにして苟も印度が英國の所屬にてある間は此義務は免る可らずし

て扨て印度政府の歳入は固より都てルービーを以て徴集することなれば英國に向け毎年金

貨を支拂ふに付ては銀の相塲の高低に從て大なる損得あるは今更ら喋々するにも及ばざる

次第なり千八百四十三年にはルービーの相塲二志四分一片なりしが五十三年には二志一片

四分一となり六十三年には二志四分三片となり七十三年には一志十一片四分一となり九十

二年の末には一志二片三十二分二十一となり銀貨の相塲次第に下落するに從て印度政府の

毎年英國に支拂ふ金高は次第に揄チし過る二十年間の損耗實に六千七百萬封度の巨額に達

したり而してこの金額は印度國の爲めに取りては何等の用をも爲さず全く水泡に歸したる

ものなり右の損失を償はんが爲め租税はuす重くなり公債は年々に揄チして底止する所を

知らざる程なれども尚ほ今年の歳出入には莫大の不足を免かれず明年は尚ほ一層甚だしき

不足あることならん扨て此困難を救治するには如何にして可ならんか此上一般の租税を重

くすれば人民は到底この負擔に堪へざること明なり去りとて銀貨下落に由て利uを得たる

穀類仲買人及び輸出商人等は實際殆んど納税の責任なきものなれば彼れ等を特に撰んで課

税することも出來ず又所得税を揄チせんとすれば甚だしき苦情起るは必然なり兎に角に今

日の事態を以て進み行かんには國は倒れ人民は餓死し官吏は悉く破産するの外に路ある可

らず實に由々しき大事變と云はざるを得ず

印度に在留する歐羅巴人が銀價下落の爲めに非常の損害を蒙るは故らに辨明するにも及ば

ざる事實なり此人人は其給料を銀貨にて受取りながら衣服家具食物飮料の代價、子弟の敎

育費、本國に在る家族の維持費等其費用の重なるものは大概みな金貨を以て支拂はざる可

らず是れが爲め彼れ等の困難は年々u々甚だしく是れまで英國の學校に子女を入校せしめ

居たる人々も愈々其費用に堪へずして女兒を印度なる我手許に引取り男兒を歐洲大陸に移

して安價なる敎育を受けしむることに改めたるもの少なからず斯る有樣なれば印度政府に

奉職する官吏の如きも皆自家の活計に汲々として復た政府の爲めに盡力勤務するの遑なく

是れが爲めに生ずるの弊害は實に名状す可らざるものあり

銀の下落より生ずる今一つの弊害は外國資本の入來を妨ること即ち是れなり金貨國の資本

主は金銀相互の價格一定せざる間は安心して銀貨國に資金を卸すを得ず何となれば銀貨國

に資本を注ぎ込みたる後に萬一銀價の下ることあれば其割合に資本主は損失を免れざれば

なり現に英國の資本は有り餘りて使ひ路なく米國其他の國には續々之を輸入しつゝあるに

も拘はらず印度のみには近來曾て輸入し來らざるは全く銀價不定の結果に外ならず外資の

入り來らざるが爲め内地にて有uなる事業も唯計畫のみに止まりて實際に着手するを得ざ

るもの枚擧に遑あらず國の爲め無上の不幸と云はざるを得ず

余は本論に於て敢て今日の困難を救治するの策を説明せんと欲する者に非ず余の目的は唯

「ルービーの下落は官吏社會を害するのみにして人民一般には却て利uを與ふるものなり」

との説の大に誤れる次第を解き示すに在り思ふに昨年のブラッセルスの會議にて各國の代

表者が世界萬國に兩貨制を實施することに决議せしならば今日の困難は救ふことを得たら

んなれども目下の大勢に照して英國が容易に兩貨制を採用す可き見込なきは明なれば此上

は唯印度政府が斷然其造幣局を閉鎖して銀の自由鑄造を廢し金貨を本位と爲してルービー

をば例へば十八片の人爲價格に据へて一種の補助貨幣と爲すの一方あるのみ此改正は經濟

上又は政治上に如何なる弊害をも惹起さずして實行するを得可ければ余は一日も速に其斷

行を見んと欲する者なり若しも印度が英國と同じ本位を採用し兩國の間に通貨の聯絡を生

ずることゝならば向後二十年間に印度は古來未曾有の進歩繁昌を現はす可しと余の確信し

て疑はざる所なり