「官邸一先づ廢す可し」
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時事新報に掲載された「官邸一先づ廢す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
此頃聞く所に據れば行政整理委員會は殆んど全會一致を以て官邸の廢止を主張し内閣大臣
中には同意者もあり又不同意者もありて未だ容易に决せずと云ふ整理委員は如何なる趣意
を以て其廢止を稱ふるや之に同意せざるは如何なる理由を以てなるか我輩の知らざる所な
れども此際局外者の所見を述べて參考に供するも敢て無用に非ざる可し讀者の知る如く官
邸の廢止は我輩の宿説にして之を紙上に記したること幾度となるを知らざれども我輩の廢
止を云ふや官邸は徹頭徹尾無用なるが故に廢す可しと主張するに非ず唯無uの華美贅澤を
耀かして社會羨望の燒點と爲り自然政治上の煩累を多くするの情もあれば政府の爲めに計
り民心を和ぐるの一手段として先づ之を廢す可しと云ふに在るのみ熟ら熟ら歐米の事例を
案ずるに今の文明世界に立て日本ほどの國柄にてあれば大臣が執務の便利の爲めに官邸を
備ふるは决して奢の沙汰と云ふ可からず瓦斯其他一切の費用も年々千圓乃至千五百圓位の
ものなりと云へば一國の財政に取て瑣々たる事なり彼の文明諸國に於けるが如く大臣の官
宅を本省の楼下或は其構内に設けて純然たる執務の目的に供するものなれば我輩は一概に
其廢止を云ふ者に非ざれども如何せん今日までの實際に照すに日本の官邸は執務の必要に
迫られて設けたるものと云ふ可からざるが如し例へば文部省は竹橋外に在て大臣の官邸は
永田町に在り、内務省は大手町に在て官邸は内幸町に在り、農商務省は築地に在て官邸は
富士見町に在り執務の便利の爲めなりと云ふも誰か之を信ずる者あらんや尚ほ是迄の實例
に依れば其私邸を官に賣却し之を官邸として住ひたるなどの奇談もありしことにて此外奢
侈贅澤の弊害は枚擧に遑あらず世間の物論を釀したるも當然の次第なり然るに今や行政整
理委員會に此説あること幸なれ外務大臣の官邸の如く本省の構内に在りて眞實必要なるも
のを除き斷念これを廢して茲に種々の弊害を一掃すると共に世の物論を絶つこと政府の爲
めに計りて今日の良策なる可し或は尚ほ其必要を稱ふる者あらんか請ふ實例を擧げて之を
證す可し現に遞信大臣は鐵道局の本省に接近せざるは不便なりとて其官邸を以て同局に宛
て大臣は私邸より通勤して別に差支を見ざるに非ずや官邸一先づ廢止して可なり
蓋し我輩が廢止の上に一先づの文字を冠したるは微意の存する所あればなり文明繁多の世
界に國して内外の政務次第に忙しきに至らば實際上是非共官邸を設くるの必要に迫らるゝ
ことある可し既に今日に於ても若しも外務大臣の官邸を廢するに於ては大臣は日々王子西
ヶ原の果より霞が關まで通勤するの不便を生じ來るにても知らる可し左れば我輩は絶対的
に官邸廢止を主張するに非ず却て其新設を要するの日こそ待つ者なれども前述の理由に據
り此際斷然廢止の沙汰あらんことを希望する者なり