「好機會失ふ可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「好機會失ふ可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

印度にて銀貨の自由鑄造を廢止したるが爲め世界の金銀市塲を擾亂して爲替相塲を六十弗

以下に暴落せしめたるは實に經濟社會近來の一大變動と云はざるを得ず抑も二十年來金に

對する銀の相塲の次第に下落して金貨國と銀貨國との間に通貨の聯絡を失ひ物價の標準一

定せずして商賣取引上に非常の困難を生じたるは爭ふ可らざる事實にして歐米諸國にて醫

苟も經濟の思想ある者の皆共に憂慮する所なれども扨これを救治するの策に至ては經濟學

者の議論千緒萬端種々樣々の方案工風を提出する者あれども孰れが果して實効を奏す可き

や容易に知る可らず此度び印度政府が自由鑄造を止めて金貨國に仲間入したるが如きも詰

る所銀價下落の患を免れんが爲めに實際の試驗を爲したるもののみ其果して如何なる結果

を現はす可きかは實行の上ならでは知る可き限にあらざれども取り敢へず之が爲めに我日

本國に及ぼす可き影響を想像すれば永遠の事はイザ知らず差向き我製造業に非常の刺激を

受けて著しき發達を表はす可きは殆んど疑ふ可らざるものゝ如し

印度にて自由鑄造廢止云々の報知は電文簡にして詳細を知る可らずと雖も我輩の推測を以

てすれば印度政府が自からルービーを十六片の人爲價格に据へ今後銀貨の自由鑄造を廢止

して留貨をば一種の補助貨幣と爲し以て英國貨幣と印度貨幣との割合を一定したるものゝ

如し印度の一留は凡そ我銀貨四十五錢に相當するを以て今回の變動前(即ち我爲替相塲二

志八片四分三のとき)には正に英貨十四片四分三の價ありしものを政府が假に十六片に引

上げたることなれば取も直さず印度の通貨は凡そ八分五厘丈け價格を高めたるものと云て

可なり左れば同國職工の賃錢も正しく其割合に下落するこそ當然の順序なるに似たれども

事の實際に於て今日俄に彼等の賃錢に斯る變動ある可しとは思はれず何となれば印度人民

の十中八九は銀貨相塲の變動が自分等の賃錢に如何なる關係あるか之を了解せざるは勿論、

此度の改革に由て留貨の價が十六片に上りたりとの事實を聞知せざる者さへ多きことなら

んなれば俄に賃錢の割合を低減するが如きは事情の許さゞる所なればなり前日の紙上に記

したる如く(七月二日時事新報)是れまで留貨の價次第に下落したるにも拘はらず印度勞

働者の賃錢が二十年來殆んど全く騰貴せざるの事實を觀ても貨幣價格の變動は勞働者の賃

錢に影響を及ぼすこと急ならざるを知るに足る可し左れば此度び彼の政府が留貨の價格を

引上げたるに付ては同國にて製造する物品の價は是れが爲めに都て騰貴することゝ想像し

て間違なかる可し然るに之に反して我國の通貨は印度に於ける自由鑄造廢止の爲めに却て

以前より價格を落したる其上に勞働者の賃錢は依然として舊のまゝなるを以て今後我國の

製造品は一般に價を引下げる姿にして印度と競爭して我に充分の勝算あるものと云ふ可し

今春時事新報の社説に掲げたる「實業論」中に左の一節あり

上海に輸入す可き綿絲に就き日本と印度と比較

一印貨三十二留  印度十六番手綿絲四百封度一 〓製造工費

此銀貨十四圓八十八錢六厘(百弗に付二百二十留替)此工費は千八百九十年孟買エ

ワード サウンスミル考課状

一金九圓五十錢  日本十六番手綿絲四百封度一 〓製造工費

双方相對して正味の工費は日本の方低廉なること五圓三十八錢六厘なれども此綿絲

を製造する爲めに孟買より日本まで原綿を引取る諸掛四圓六十錢、同輸入税一圓二

十錢合して五圓八十錢なり之を工費の九圓五十錢に加ふれば十五圓三十錢と爲りて

印度に及はざること四十一錢四厘

一金三圓六十三錢二厘 孟買より上海まで運賃 保險料其他諸掛

一金六圓四十八錢七厘 日本より上海まで運賃 保險料輸出税其他

此内三圓五十錢は輸出税なるが故に假りに無税とすれば六圓四十八錢七厘の内より

三圓五十錢を引き二圓九十八錢七厘と爲りて孟買絲に勝つこと六十四錢五厘なり

又孟買絲を日本に輸入せんとするには

一金三圓八十六錢三厘 運賃保険料其他諸掛

一同三圓五十錢    輸入税

合計七圓三十六錢三厘、是れは前記の工費外に要するものにして尚ほ此他に日本着

荷の上賣捌手數料等もあることなれば迚も輸入の道なしと知る可し

右の如く印度と日本と比較して工費の正味は日本の方遙に低廉なれども孟買より原綿引

取の諸掛並に其輸入税を計算すれば却て少しく高し又雙方より其製絲を上海に向て輸出

せんとするときも我輸出税の爲めに少しく孟買絲に及ばざるのみ左れども印度製の絲を

日本に輸入するは迚も叶はざることにして永く斷念せざるを得ず故に現今の有樣を概評

すれば雙方共に睨合ひの姿を爲し上海を競爭の土俵塲として日本は尚ほ未だ十分に乘出

すことを得ざれども今にも我海關税法を改むるか又は他に少しく事情の變動あるときは

日本の輸出を以て印度を壓倒するは决して難事にあらざる可し云々

右は當時の相塲に從ひ我銀貨百弗に付印貨二百二十留の割合を以て計算したるものなれど

も今日留貨は上りて十六片と爲り一圓銀貨は下りて三十片と爲りたれば日本の百圓を印度

の通貨に直せば僅に百八十八留に過ぎず故に印度に於ける綿絲の製造工費三十二留は我國

の十七圓餘に當るの勘定にして若しも今日綿絲輸出税の廢せらるゝこともあらんには我國

の製絲を支那地方に賣捌て印度絲を壓倒すること敢て難きに非ざる可し尚ほ銀價下落の機

會に乘じて大に海外輸出を企て我國の利uを致す可き産物は他に少なからざる可し金銀價

格のことは經濟上の大問題にして今後の大勢如何の如きに至ては容易に斷言し難しと雖も

此度び印度政府の一擧が端なくも非常に我輸出業を補uするの事實は疑ふ可らず我國の實

業家は眼前に此の好機會を見て之を利用するに躊躇するなからんこと我輩の切に勸告する

所なり