「 文治派と武斷派 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 文治派と武斷派 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 文治派と武斷派 

世人の言を聞くに政府部内には文治武斷の兩派ありて互に意見を異にして互に消長あり即ち前内閣の閣員には武斷派のもの多かりしが現内閣は之に反して文治派の閣員多數を占めたり云々といふものあり文治武斷とは如何なる意味なるや知る可らずと雖も抑も文明國の施政に文治の必要は勿論のことなれども時として武斷の必要もなきに非ず即ち法律政令百般の内治は專ら文明を主とするものなれども外交の關係に於ては平時と雖も武を修むるの必要あり况して一旦有事の塲合に當り武力の欠く可らざるは論なきのみ左れば文治派と云ふと雖も時としては武斷の必要あること勿論なりとして扨その所謂武斷派なるものに至りては其意義を解すること甚だ臭からず或は武斷派とは字義の如く武斷政治を主張するものにして其極端を云へば自家の主義を行ふが爲めには或は現在の政法慣習を犠牲に供するも敢て辭せざるの覺悟を極むるものなりなど推測の説もなきに非ざれども斯る無法の主義は决して今日の社會に行はる可きに非ず所謂武斷とは决して斯る意味のものには非ざる可し我輩の所見を以てすれば所謂文武とは内外の區別にして即ち文治派は内國の静謐を主として先づ何事も成る可く穩に處置し俗に云ふ事なかれかしの主義にして外國の關係の如き務めて之を避けんとする其反對に一方の武斷派は重きを外に置き内には多少の不平あるも之に頓着せず外に對して國權を張らんとするものならんか果して然らば其名の當不當は兎も角も自から政治の主義として見る可きものなり彼の明治初年の征韓非征韓の論の如き今日の論者は或は西郷以下の征韓派を目して漫に無謀の擧を企てたるが如くに論ずるものもなきに非ざれども畢竟事後の成敗を見て時の事情を詳にせざるが爲めにこそあれ我輩の所見を以てすれば一方は内治を主とし一方は外事に重きを置きたるものにして政略上の爭に外ならず其孰れの主義が果して國に利なるや否やは人々の判斷に任するの外なしと雖も日本の政治上に此兩主義の相對立するは自然の數なる可し即ち單に政府の部内のみならず世間の學者論客中にも既に其議論あることにして日本今日の國是は果して内治を專らとして外國との關係は務めて之を薄くす可きか將た大に對外の政策を畫して國權の擴張を謀る可きかは吾々國民たるものゝ去就を决す可き大問題と云はざるを得ず左れば政府部内の政客中に所謂文治武斷の兩派ありて互に意見を異にするは毫も怪しむに足らざる次第にして兩派の人々は飽くまでも其意見を主張し互に局に當りて之を行はんと勉むること彼の英國の自由黨の政府の局に當れば專ら内治を主張すれども保守黨が之に代れば全く反對にして外交を重んずるが如くするこそ國の爲めに利益なれ英國の如きは所謂政黨内閣の習慣にして主義の爭は常に朝野の間に在ることなれども我國の事態は未だ斯くの如き塲合に至らず内閣の更迭は政府の部内に行はるの常なれば所謂文武の爭も亦その部内に於てすること自然の成行なればなり抑も現内閣の主義果して文治の一方に在るか自から政治上の一主義なれば務めて他の異見を排斥し斷乎として其見る所を行ふ可し武斷派も亦然り對外に重きを置くは政治家の主義として毫も疾しき所あらざればますます其主義の擴張に勉む可し世人は各その見る所に隨て賛否を表す可きのみ即ち政客たるの本分を全ふするものなれども双方共に互に遠慮して互に明言せず只その折合のみを謀らんか是れぞ情實の本色を顯はすものにして世人は其孰れにも與するものなかる可し政客の爲めに謀れば主義を屈し政友を失ふものにして此上の不利はある可らず我輩の取らざる所なり