「銀貨下落の影響」
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時事新報に掲載された「銀貨下落の影響」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
世界中に銀價の下落を催ほしたるは凡そ二十年來のことにして其原因を尋ぬれば詰り銀の
産額年々に揄チして金に對するの比例を失ひ次第次第に價を落して此有樣を呈したるもの
なり事實に明白なる所なれども昨今に至りて遽に大變動を起したる由縁は印度の政府が貨
幣の制度を改めて其通用銀ルービーを金貨十六斤と同格のものに定め之と同時に自由鑄造
を廢したるが爲めにして世人の知る如く印度は金貨國なる英國の屬地なれども其通貨はル
ービーと名くる銀貨を使用して純然たる銀貨國なりしに近來銀價下落の爲めに非常の困難
に陷りたる次第は外ならず印度の政府は年々英の本國に仕拂ふ可き金額を始めとして諸般
の政費何れも實際に減額せられたると同樣の姿を呈し財政の困難一方ならず殊に官吏の如
きは何れも英國より一時在勤するものなれば恰も給料を減ぜられたるの姿にして現に其子
女を本國に留学せしめ置きたるものも費用に差支へて止むを得ず呼返さゞるを得ざる等そ
の難澁は非常にして不平の聲甚だ高し凡そ是等の困難を免れんとするには政府の歳入を
加するの外に策なけれども印度の租税は從來甚だ輕からずして此上の揄ロは實際に行ふ可
らず是に於てか幣制變更の手段に出でゝルービーを十六片の價格に引上げたることなり本
來一ルービーは凡そ我銀貨四十五錢にして正しく英貨十四片餘の價なりしを遽に十六片の
人爲價格を付して恰も一種の補助貨幣として通用せしめ之と同時に一方に於て自由鑄造を
廢したるは其名義の如何に拘はらず實際に金貨本位の制度を採用したるものに外ならず之
が爲めにuしたるは印度の政府と官吏とにして一般の人民は非常に損害を受けたる次第な
れども其次第は兎も角もとして從來銀貨國なりし印度が一變して純然たる金貨國と爲り一
切銀の需用を止めたるに就ては自から世界の銀價に影響してますます下落の勢を助けたる
も固より怪しむに足らず即ち過般來爲替相塲の俄に下落したる所以にして尚ほ其外に注目
す可きは目下米國に於ける銀問題の始末あり同國は先年來銀價維持の政策を執り所謂シャ
ーマン法とて毎月四百五十萬オンスの銀塊を政府に買入れ以て其價を維持せんと謀りたれ
ども銀の下落は世界の大勢にして毫も其效なきが故に同法廢止の説次第に盛なる折ネ恰も
印度の幣制變更の餘勢に接して事の急を告げたる者か來八月七日より臨時國會を開き其法
の存廢に就て議する所ある筈なりと云ふ其結果は今日より豫知す可らずと雖も或人の説に
據れば同國にては所謂シルヴアーメンとて銀營業者の勢力頗る盛なればシヤーマン法の廢
止も中々容易ならざる可し或は目下の與論止むを得ずして同法の廃止に决するも金貨本位
などとは思ひも寄らぬことにして或は善後の策として其名を金銀兩本位にして實際には銀
本位の制を採用するに至るやも知る可らずとの推測もなきに非ざれども假令ひ米國に於て
銀本位の制を採用したりとて世界の大勢は如何ともす可らず銀價の維持は到底覺束なきこ
とならん况んやシャーマン法の如きよしや廢止に至らずとするも實際には何の效能もなき
ことならん右の如き次第にして銀價の下落は世界一般に影響する所少なからざる中にも銀
貨國なる我日本國の如きは最も甚だしきものにして昨今の爲替相塲は六十弗即ち金の百圓
は銀の百六十六圓六十六錢に相當するの割合と爲り今後の下落尚ほ圖る可るず誠に容易な
らざる變動にして目下世間に議論の喧しきは謂れなきに非ず此事に就ては我輩に於ても自
から説あり銀價の下落は日本の爲めには毫も患ふるに足らざるのみか斯る變動の間こそ面
白き時節なれ外に向ては我貿易商賣を奬勵し内に於ては物産工業を發達せしむるの好機會
なればますます進んで此機會を利用せざる可らずとて毎度意見を陳述したることなれども
此頃世間にて理財家もしくは學者と稱せらるゝ人々の説なりと云ふを聞くに銀價の下落を
以て我國の爲めに不利の大なるものとして杞憂を懷くもの少なからざるが如し其説に曰く
銀貨下落の爲めに我國より外に輸出する品物は好き價を得て利するが如くなれども是れは
下落の實を忘れたるの計算にして實際は損失を免れざるものなり、曰く輸出の揄チするは
喜ぶ可きが如しと雖も其代りに世界に不用の銀はますます日本に流込みて國内に銀の充溢
を致す可し曰く銀價下落の爲めに商賣工業の繁昌は一時の虚影にして眞實の景氣に非ず其
結果は不換紙幣濫發の爲め一時の景氣を催ほしたると同樣にして忽ち反動を見るに至る可
し云々とて一々不利の點を計へ去りて遂に日本の幣制を改めて金貨國と爲すに非ざれば禍
を免る可らずと主張するものありと云ふ驚入りたる次第にして其説取るに足らずとするも
世人の動もすれば惑ひ易き所なれば利害を明にして事の眞相を分明ならしむるは目下の急
なる可し依て我輩は是等の點に就き次第に評論して世人の參考に供する所あらんとするも
のなり