「金貨國たる難きに非ず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「金貨國たる難きに非ず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

金貨國たる難きに非ず

世人或は銀價の變動を以て日本の不利と認め我國の幣制を一變して金貨國となすに非ざれば其不利を免るゝこと能はずとの説を爲すものあり銀變果して我に不利にして其不利を免るゝには金貨國たるより他に手段なしとするときは幣制の一變も亦難きに非ず即ち今の兌換準備金を金に換ふるまでのことにして之を斷行するには僅々三四千萬圓を損するに過ぎず敢て行ひ難きに非ざれども銀の變動は銀貨國の商賣工業を發達せしむるに此上もなき好機會にして吾々國民は此機會に乘じて大に利せんとするものなるに何を苦んで幣制の變更を主張するか我輩の毫も解せざる所なり抑も貨幣は物の價を計るの尺度なれば成る可く恒久不變にして價を計るに時に隨て伸縮消長の患なきものを適當なりとすること勿論として扨今の世界に貨幣として一般に用ゆる金銀の兩金屬は古來の經驗に於て適當の尺度と認められたることならんなれども近來世界の生産力は非常の進歩にして千種萬類の物品夥しく增加したるは疑ふ可らざるの事實なるに其物を計る可き金銀の産出は如何と云ふに近時の統計に據れば銀は年々非常の割合を以て增加する其反對に金は年々増加せざるに非ずと雖も其增加の割合は迚も銀に比較す可らざるの事實を見る可し是に由て之を見れば金の産出は物品の增加に伴はずして寧ろ反比例を爲し銀の産出は却て之に超加して獨り前進するが故に紳縮消長一ならずして金を以て物を計れば長きに失し銀を以てすれば短きに失し物價の尺度としては共に適當の性質を失ふたるには非ずやと我輩の竊に推測する所なれども其儀論は世界萬國の貨幣制度に關する大問題なるが故に姑く之を他日に讓り兎に角に金貨國の物價は次第に下落し銀貨國の物價は之に反して次第に騰貴するは實際の事實なりとして扨今の世界には金を本位とするものあり銀を本位とするものあり即ち西洋諸國は概して金貨國にして日本の如きは銀貨國なり唯夫れ銀貨國なり左なきだに物價の騰貴は自然の勢なるに近來の銀變の爲めに更に其勢を增しつゝあるは日本今日の實際なりとす凡そ世間の繁昌は物價の騰貴に伴ふこと殆んど天然の約束とも云ふ可きものにして古今東西の例に於て皆然らざるはなし即ち今の日本の有樣は正に然るものにして物を製すれば必ず賣れ賣れば必ず利益ありと云ふ商賣繁昌せざらんと欲するも得べからず而して一般の社會に於ける人民銘々の利害は如何と云ふに物價騰貴の爲めには幾分か生活の費用を增すことならんと雖も働く可き仕事は世の繁昌と共にますます多くして賃銀も隨て增加す可し即ち從來二十錢のものが二十五錢となり二十五錢のものが三十錢となれば其增加は生活の費用を償ふに足るのみならず世間の仕事は次第に增すのみなるが故に勞力の需用はますます盛にして働けば働くほど錢を得るの望ありと云ふ勞働社會の喜び想ひ見る可し又貸金預金もしくは公債の利息を利し又は一定の給料に衣食する輩は恰も収入を減ぜられたると同樣の姿にして多少の不平はあることならんと雖も苟も其資金を運轉して商賣生産の業に從事するものは何れも利益を得ざるはなし或は多數の中には十分に利せざるものもあらんなれども是れとても只利せざるまでにして損したるに非ず即ち其運動の活溌ならざるが爲めのみ如何となれば物を製すれば必ず賣れ、賣れば必ず利あること物價騰貴の社會に於ける常態なればなり然るに金貨國の有樣は如何と云ふに物價の騰貴、社會の繁昌を來すの事實果して疑なしとすれば其下落は反對の現象を見ること自然の結果ならざるを得ず現に英國の如き近年來物價の下落したるは著しき事實にして商賣の不景氣一方ならずと云ふ商賣不景氣にして物の賣行、惡しきときは物を製する製造家は止むを得ずして其業を廢するか或は然らざるも勘定の引合ふまでに職工の賃銀を減ぜざるを得ず斯くて職工は賃銀を減ぜらるゝも諸般の物價一樣に下落して隨て生活の費用も減ずるに至れば別に苦痛もなき筈なれども實際その下落の勢は案外遅々たるものにして日用生活の品物に至るまでも一樣の平準に歸するは容易のことに非ざるに賃銀は早く既に減ぜられて恰も物價下落の先陣を命ぜらるゝものに異ならず職工輩の身と爲れば生活の費用未だ大に減却せざる其最中に賃銀は早く既に削り去られんとする實際の難澁に身を苦しむ其上に社會の一方を見れば富豪金滿家の流は物價下落の爲めにますます生活の豐なるを加へ豪奢壮遊、得々として他の苦痛を知らざるものゝ如し俯仰感慨、滿腔の不平抑へんと欲して抑ゆ可らず近來彼國の社會に同盟罷工その他の騒動毎度の沙汰にして兎角穩ならざるは人口の增殖、教育の過度等自から原因あることならんと雖も商賣不景氣の爲めに勞働社會の生活を困難ならしめたるの一事こそ第一の原因なる可しと云ふ右は金貨國なる歐洲諸國の現状なりとて聞く所を記したるものにして之を以て金銀兩制度の利害を決せんとするに非ざれども若しも或る論者の説の如く我幣制を改めて金貨國と爲すときは假令ひ右の如き惨状を見るに至らざるまでも物價騰貴商賣繁昌の望は全く空に歸して少なくも銀變以前の故態に立返らざるを得ず思ふに今回の銀變たる銀貨國なる我日本の爲めには此上もなき好機會なれば吾々國民たるものはますます進んで其利を利す可きに眼前に其利を見ながら退て幣制云々の空論を談ずるが如きは我輩の斷じて興せざる所なり