「傅染病研究所の始末」
このページについて
時事新報に掲載された「傅染病研究所の始末」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
前節に記したる如く今囘北里氏の辭任は研究所建設地の紛論に起因したることにして其紛論の源は芝區に
在りと云はざるを得ず初め區内の愛宕町に建設の沙汰を聞くや共近傍の人民中に苦情を唱る者ありとて有
志の人々は集會を催ほして事實を調査し民情を視察し其事の果して衞生上に危害にして區民の恐怖するも無稽
ならざるを認め研究所は愛宕町の如き人家稠密の地に置く可らずと議定してより是に於てか始めて研究所排
斥の公論を生じ毎度演説會を開きなどして盛に事の非を鳴らして公共に訴へしかば無智の民は左なきだに傳
染病の文字を見て疑懼の念を抱く其處に上流の有志者が排斥論を公言することなれば民情いよいよ恟々とし
て動もすれば不穩の風聞を傅ふるものさへなきに非ず即是れ建設工事の着手に至らざりし所以なり然るに
近日に至りては彼の有志者流も學理上に於て大に悟りたる所あるにや當初の氣焔を収めて平和を旨とし右建
設の學理上に妨なきは之を了解したれども唯如何ともす可らざるは區民の感情にして之を制するに由なきが
故に研究所は敢て之を芝區外に逐出すとも云はず區内の人家遠き場所に移轉ありたし此事にしてぃよいよ
承諾とあらば有志者にて地面を無代價にて貸渡し又至當の費用をも辨ず可し若し萬一も民情如何を顧みず
して強硬の手段に出ることあらんには無智の區民は必ず大に激動す可し其極端を想像すれば建物に放火し
北里氏を要撃するやも計られず此處は枉げて有志者の意に任せよと云ふ其談判は至極親切なるが如くなれども
北里氏の身と爲りて考れば斯くまでに人の忌み嫌ふ事を無理に犯して斷行せんとすれば第一その身の危險も
計られず道の爲めに身を致すと云へば其言は立派なるやうなれども高の知れたる愚民を相手にして理非を爭
ひ軍人でのなき學者の身を以て腕力の沙汰など聞くも面白からぬ事なり然かのみならず斯る紛紜に時を費す
其間に日新の研究を空ふしては學者の本分に背くと云ふ處より是れまでの成行を一夢に附し去り本来無一
物の書生に立戻りて研究の規模を小にし私に勉強して初一念を達せんとするに決斷したることならん之を
要するに北里博士は近來醫學中の美人なれども其評判の餘り高きが爲めに却て人に悦ばれず嫁して東京の芝
區に來りて研究の事を行はんとしたれども舅姑の待遇甚だ無情にして家人も亦共に之を窘め遂には放逐の
沙汰にまで及びしこそ是非なき次第なれ斯る不幸に際しては親類又は本家などの相談を以て兎に角に事を圓
滑に治む可き處なれども區外の親類たる醫者學者を始めとして政府の筋に於ても之を視ること冷淡にして曾
て心配の樣子もあらざれば今は美人も依る可き便なく自から薄命を悟りて離婚を請求したるのみ人情世界
に珍らしからぬ事にして特に怪しむに足らざるなり然りと雖も凡そ研究の事業に地位と資金となきを訴るは
學術社會の常なるに北里博士が既に得たる衞生會の委托を辭して併せて其補助金をも返納するが如きは先づ
以て人事の異數と云はざるを得ず隨て自から世間に物論をも生ずることならん第一この事に付き直接の原因
は芝區民の苦情より外ならず而して其苦情は果して無學不文なる小民の間に發したるか或は上流の有志者も
共に苦情を嗚して上下同時に雷同したるものか或は先づ小民社會に起りて然る後に有志者は之に應じたるもの
か有志者は後に之に應じたるものとして其人々の集會演説等非常に熱心なりし其影響は却て又區民の心を
激昂せしめたるの痕跡あるやなきや有志者が最初は頻りに研究所の有害を唱へながら後には漸く其無害を悟り
たる樣子なれども其これを悟りたる上にて更に愚民に説諭して其熱を冷却することに勉めたるや否や以上は
芝區の有志者に對する疑問なれども更に政府に向ても多少の質疑なきを得ず研究所の補助費は國會の決議に
基きしものにして國會は單に金の支出を決したるのみ此金を利用して首尾能く事を行はれしむるは行政々府
の知る所なるに政府の筋に於ては果して之に注意して盡力したるや否や凡そ是等は今後世間にも議論ある可
く又次期の議會に於ても多少の問答ある可し我輩の念入れて聽かんと欲する所のものなり〔八月十二日〕