「秘密投票の制を實行す可し」
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時事新報に掲載された「秘密投票の制を實行す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
秘密投票の制を實行す可し
過般神奈川縣高座郡に擧行したる縣會議員の撰擧は端なくも自由改進兩黨の大競爭を惹起し其極遂に腕力の闘爭と爲りて兩派互に數百人の壮士人足を操出し白晝兇器を弄んで死傷の沙汰をさへ聞くに至りしは誠に以て言語に絶へたる次第にして此頃の炎暑と共に政治の熱度も頓に上騰して遂に一郡の人心を狂せしめたるものなる可し近來政黨の爭は次第に劇しきを加へ何れの地方に於ても國會府縣會等の議員撰擧と云へば常に騒動を免かれず壮士を使用して反對者を嚇し金錢を以て投票を賣買するが如き珍らしからぬ事として世間に怪しむ者もなきに至りしこそ是非なき次第なれ地方の人々が徒に政治に狂奔して自家の成業を等閑に附するの弊は我輩の毎度痛論したる所にして世間に同感の人も必ず少なからざることならんなれども如何にせん世の中には政治專門の業に從事し所謂政技者を以て自から居る者あり此流の專門家は世人が政熱に狂するに非ざれば自から利する所なきが故に政界の熱を高度に維持するの工風を運らし偶ま撰擧等の事あれば必ず其機會に乗じて怠ることなく頻りに人民を教唆煽動して競爭の熱を高からしめんとする其趣は無事に苦しむ代言人が法理を喋々して暗に人の起訴を促がし病家に乏しき庸醫が流行病の蔓延を喜ぶの情に異ならず今や地方の人民は政治上の經驗なくして却て政熱に犯され易く政技者は閑居して唯事の繁多を祈るの折柄、一方は動くに輕くして一方は動かすに巧なり斯る有樣にてあらん限りは何れの撰擧にても事の平穩は到底望む可らざるものゝ如し是に於てか我輩が目下の弊を矯正するの手段として試んと欲する所のものは西洋諸國の或る部分に行はるゝ彼の秘密投票の一案なり抑も今日の撰擧競爭に候補者が互に壮士を使用して撰擧人を脅迫し又は財物を啗はせて之を誘導し果して夫れ丈けの効驗あるは何ぞや畢竟撰擧の後に至り曩きに脅迫せられ誘導せられたる撰擧人が其姓名を記したるが爲めに何れの候補者に投票したるかを公にせらるゝの便りあればなり故に今投票法を秘密にして誰れが誰れに投票したるか一切他より知ることを得ざらしめたらんには折角力を盡して我が味方に引入れたりと思ふ所の其撰擧人が撰擧の當日に萬一我が爲めにせざることあるも實蹟を押へて之を責るに由なく壮士賄賂の巧能も有るが如く無きが如くにして先づ以て無益の沙汰なれば人々自から思ひ止まりて競爭の醜聞は之を禁せずして自然に消滅することならんと我輩の信ずる所なり秘密投票の制は濠洲殖民地、英國、合衆國等にて之を實行し既に非常の効驗を奏したるものなれば我國にても具に其方法を考究して一日も早く之を採用するに至らんこと切望に堪へず偶ま神奈川縣の撰擧競爭を聞き聊か所見を記して世間政治家の注意を促すのみ