「清韓居留民を安からしむ可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「清韓居留民を安からしむ可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

清韓居留民を安からしむ可し

此程の紙上に見えたる如く朝鮮釜山に於て發行する東亞貿易新聞の主筆たる人は治安妨害の廉を以て總領事より二ケ年間朝鮮在留を禁ぜられ向ふ十五日間に同國より退去を命ぜられたるよし内地に於る政治家又は新聞記者等の退去談は毎度耳にする所にして珍らしからざれども外國に於て領事が新聞記者を放逐するが如きは是れまでの事例に稀なるが故にや頗る世人の注意を惹き從て諸新聞紙の中にも右の被退去記者に同情を表して暗に領事を責むるもあれば又は記者の粗暴を鳴らして領事の處置を正當と認むるもあり今その是非の儀論は姑く擱き元來この事たるや一箇人に關するが如しと雖も延ひて居留民一般の利害に影響する所なきにあらざれば茲に我輩の所見を述べんに抑も今度の總領事の處置は明治十六年三月布告第九號清國及朝鮮國在留日本人取締規則に據りたるものにして表面上固より一點も批難す可き所ある可からず其取締規則の文は左の如し

第一條 清國及朝鮮國駐箚の領事は在留の日本人該地の安寧を妨害せんとし若くは風俗を壊亂せんとする者又は其行為により該地方の安寧を妨害し若くは風俗を壊亂するに至るべき者と認定する時は一年以上三年以下在留することを禁止すべし但し情状に由りては其期限内相當の保證金を出さしめ在留せしむることを得

第二條 在留を禁止せられたる者は十五日以内に退去すべし若し期限内退去し難き正當の事由ありて其旨を申立る時は領事は相當の猶豫期限を與ふることを得

第三條 保證金を出したる者再び第一條の擧動ありと認定する時は領事は其保證金を没収し仍ほ在留を禁止す可し

第四條 退去期限若くは猶豫期限内に退去せざる者及禁止期限を犯したる者は十一日以上一月以下の重禁錮に處し二圓以上百圓以下の罰金を附加す

第五條 此規則の處分に對しては上訴を許さず

右の條々に據れば一人の領事が安寧を妨害し風俗を壊亂する者と認るに於ては駐箚公使に伺ふを要せず居留民の意見を聞くに及ばず獨斷を以て其者の在留を禁止し退去を命ずること容易なるが如し領事たる者必ずしも鬼神の明あるに非ずして其職權の大なること斯の如し居留民に取りては隨分安からざる規則なりと云ふ可し内國に於ける保安條例の如き其施行に就ては必ず政府の熟議を重るの慣行なれども尚ほ且つ是非の物論を免からず然るに心淋しき異郷在留民の頭上に斯る法を布いて怪む者なきは一見不釣合なるが如くなれども能く法の精神を究むれば自から理由の存するものあり其次第如何と云ふに右の取締規則は所謂中等以上の人に對し設けたるに非ずして其當時清韓地方へ醜業者の大に蔓延するありて領事の手限り神速に之を處分するの必要に迫り又醜業者のみに限らず總じて國の體面を汚す可き下等無頼の輩に對しても臨機の處分を要すること少なからざるよりして特に新規則を發布して領事に特權を附與したることなり自から時の宜しきに適したる法なれども若し萬一も法の精神以外に逸して其明文あるに乘し時に或は感情に制せられて之を利用し中等以上の士人に對して醜業者無頼漢を御するの筆法を揮ふが如きこともあらんには居留人民は安んじて其業を營む能はざるに至る可し官民の間柄の圓滑ならざるは我國年來の宿弊にして啻に内國に限らず外國に於ても公使領事と居留民とは兎角面白からざるもの多しと云ふ遠き外國に在りて互に近接親睦こそす可きものが斯る有樣なりとは歎ず可き次第にして一口に申せば官民共に未だ文明氣輕の交際法に慣れざるが故なりと云ふの外なし此度は新聞記者に對して退去を命じたるが故に世の新聞紙にも喋々せられて聊か人の注意も惹きたることなれども聞く所に據れば是迄共同國に於て居留民の退去沙汰は珍らしからぬことにて苦情も隨分少なからず切めては上訴を許すことにして以て權利を伸るの道を開きたしなどの希望は已に其筋の耳にも聞えたるならんと云ふ今回の事の如きは申さば實利害に縁薄きものとして看過す可きなれども或は用法の方向を轉じ其地に根據を定めたる實地の營業者に對して誤て同一樣の筆法を用ひ端なく其業を妨ることもあらんには是れぞ由々しき實業界の大事なれ當局者の宜しく其内状を察して熟慮す可き所なる可し我輩は敢て取締規則を改正す可しと云はす敢て領事の權を過大なりとも云はず唯その濫用を恐れて弊事を其未だ生ぜざるに防がんと欲するのみ例へば從前の支那朝鮮に於ける日本人の居留地には一種の團體を作り幾十名の議員を撰みて上に總代を置き居留民一般の利害休戚を計るの慣行あるこそ幸なれば領事に於て其居留民中に安寧を妨害し風俗を壊亂する者ありと認めたる塲合には之に退去を命ずるに先ち兎に角に一應右の團體に諮詢し團體の見る所にても此者はいよいよ退去せしめて然る可しと認めたる上にて斷行するが如きは事態頗る穩當なるのみならず領事も亦自から責任を分つの姿にして双方の便利なる可し近事を聞いて聊か鄙見を述べ當局者の注意を促すものなり