「飽くまでも銀國たる可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「飽くまでも銀國たる可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

飽くまでも銀國たる可し

世間一種の論者は為替相塲の下落するを以て我國の不利と爲し速に今日の幣制を改めて金貨本位を採用し以て銀勢變動の災を避けざる可らずと主張するよしなれども元來銀の下落は昨今突然に始まりたることに非ず數年前より既に金銀の相塲に著しき等差を生じ今日は唯其上に一歩を進めたるまでに過ぎざれば此期に臨んで假に事珍らしく金本位論を唱ふるが如きは聊か狼狽の沙汰にして斯る儀論に同意する者は稀なる可しと思ひ我輩は特に之に意を止ることもなかりしに近頃聞く所に據れば政府の筋にも金本位論に賛成する人ありて現に大藏省にては幣制改革の利害得失を調査せしめつつありと云ふ抑も金銀價格の變動は經濟上近來の大事件なれば大藏省にて之に應するの製作を考究するは固より其處なれども若しも世上に評判するが如く政府が果して始より金本位を採用するの覺悟にて此度の調査を爲すものにてもあらんには我輩は大に反對を表せざるを得ず過日來毎度時事新報にも述べたる如く銀價の下落は我商品の輸出を奨勵し内地の工業商賣を發達せしむるの好機會たりしは事實に爭ふ可らず過る三四年間に我國實業界の面目を改め外國貿易高の日に益す增加するに至りしも其大原因は即ち為替相塲の下落に在りと云て間違なかる可し試に今日内國の實業者に向て君は銀價の騰貴を悦ぶや將た下落を利とするやと問はば苟も自家の利害を知る者は皆下落を希望すと答ふること必然なる可し金尊銀卑は日本國の爲めに取りて願ふても無き大幸福なるは分り切たる事なるに何を苦しんでか今日金貨國と爲るの必要ありや我輩は實に金貨論者の意を了解すること能はざるなり假に今我國にて金本位を採用するとせんか通貨の價上騰するに隨て諸物價はみな下落し勞働者の賃錢も亦必ず下落するに相違なしと雖も都て物價賃錢は數年來の習慣に由て定まり居れるものなれば一朝幣制を改革したればとて其時より直に通貨の價の騰貴すると同じ割合に下落することはある可らず數年來銀價の次第に下落したるにも拘はらず我國の物價賃錢が其割合に騰貴せざるを見ても明なる可し普通物品の價及び勞働者の賃錢にして果して通貨の騰貴と同じ割合に下落せざるときは諸般の製造費は必ず增加せざるを得ず製造費增加すれば輸出品の價格騰貴して世界の市塲に外國品と競爭するに當り困難を免かれざるは自然の結果にして其極は遂に我製造工業の衰退を來し資本家も勞働者も共に難澁するの外ある可らず内の製造衰ふるときは外國品の輸入は増加するに相違なく今日漸く發芽しつゝある我國諸般の工業商賣も到底外國の競爭に斃されて復た跡を止めざるに至る可し去りとては殘念千萬ならずや過般印度にて幣制を改めてルーピー貨に人為の價格を附したるは同國政府經濟上の都合より已むを得ざるの窮策なれども印度人民一般の爲めを謀れば無限の不利益たるを免かれず左れば同國の貿易商などは此度の一擧を評し月給に生活する英の官吏若しくは會社員等が國民一般を犠牲にして以て自家の私利を逞ふするの姦策なりとて口を極めて攻撃する者多しと云ふ兎に角にルーピー貨の價格騰貴したるが爲めに印度の工業商賣に非常の障碍を與へたるは明白なる事實にして現に此度の幣制改革を主張したる人々と雖も其印度商人に多少の不利益を及ぼすは免れ難き所なる旨を公言せり左れば我國にて今日漫に銀價下落の現象に驚かされ前後の考もなく金本位を採用せんとするが如きは實に愚の極と云はざるを得ず士族流の政府動もすれば錢の勘定に迂濶なりと雖も斯る無謀の理財法には從はざることならんと我輩の敢て信する所なり