「政技者の時代」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「政技者の時代」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

政技者の時代

國會開設に伴ふて生したる弊害を枚擧すれば大は國家の經綸より小は個人の交際に至るまで種々百端殆んど限りなく人をして轉た憂慮に堪へざらしむる事なれども就中耳目に忌はしきは撰擧競爭の弊より甚だしきはなし此弊害たる天下萬衆の共に認めて顰蹙する所にして彼の運動者自身とても之を弊害にあらずとは得云はずして唯止むを得ざるに出づるの運動と言ふのみ斯まで明白にも亦堪へ難き弊害なれば我輩は之が矯正の爲めにとて屡々朝野の注意を促したる中に現今の撰擧法を改めて秘密投票の制となさんことを勸告し又その實行を祈るに急なりしが今に至るまで曾て政治社會の議題に上らず恰も雲烟過眼視せらるゝが如きは窃に不審の至りに堪へず秘密投票の制たるや決して我輩の新發明にあらず往古希臘全盛の頃より既に既に行はれたるものなれば今日我撰擧法の弊あるを見ては少なくとも矯正策の一端として先づ指を此制に屈す可き筈なり勿論政治家の實況として其宜しく注意す可きものに注意せず其宜しく議題となる可きものを議題となさゞるは獨り秘密投票の事のみならずと雖も遠圖長策將た理論の六ケしきものならば格別、最も覩易き撰擧競爭の弊、最も解し易き秘密投票の制に就て政治家たる者が毫も相關せざるものゝ如しとは實に其意の所在を知る可らず左ればとて議員及び政黨員の間に於て全く撰擧法改正の談なきにもあらずして或は撰擧區を大にせんと云ひ又或は撰擧被撰擧權を擴張せん抔とは憲法發布の時より囂々して今も現に黨議の一に列擧するものさへあり此等の改正論に就ては我輩亦別に説ありと雖も其可否は暫く擱き所謂撰擧被撰擧權を擴張せんと云ふは即ち今より一層進歩せんとの意ならん然るに實際撰擧競爭の弊は現に療治を加へざる可らざるものなり既に現はれたる所の弊害に療治を加ふると未だ見ざる所の利益を期して進歩を企ると前後緩急は多言を俟たずして明白なる可し贈賄脅迫等の惡風によりて目前權利を屈せらるゝの時に當り之を矯めずして偏に擴張に走らんとするは喩へば胃弱症の人が體格を肥大ならしめんとて多食するが如きのみ且つ夫れ擴張論は理想上の談にして秘密投票の制は實際上の急務なり政治家の政論は如何にしても先後を紊るの譏りを免る可らざるが如し又撰擧區擴張論の如き由て以て競爭の弊を減ぜんと云ふもあれども其得失は未だ知る可らざる上に之を秘密投票の實行に比すれば効能の多少は固より同日の談にあらず或は言ふ秘密投票も亦一得一失ある可しと我輩は其如何なる失あるや將た今後如何なる新欠點を見るやを知らずと雖も各國從來の實例に徴するに投票用紙を贋造すること、一人にして數葉を投すること、一人にして數度投票すること、本人の名義を犯し又は代理人などゝ詐稱する者あること、凡そ此邊の故障に過ぎず成程無記名の投票なれば後に至り詮索も困難なるに似たれども是れは昔の噺にして今日は之を防ぐに何の造作もなきことたるは復た辨を俟たずして讀者の能く知る所なる可し况んや機械の發明によりて凾の中に自鳴鐘を設け投票紙一枚を入るれば必らず一枚毎に音を發して決して數葉を一時に投ずる能はざるの工風さへあることなれば充分に投票を秘密にして且つ充分に詐計を防ぎ少しも懸念するに足るものなし抑も撰擧競爭の弊は贈賄脅迫を以て根本となすが故に之を防ぐは弊を防ぐの第一にして而して投票を秘密にするの一事は最も有効適切なり固より此一事によりて全く弊を絶つこと能はざるは申す迄もなけれども其濠洲に初まりて英國に傳はり日耳曼、伊太利、西班牙、白耳義、瑞西、北米合衆國(各州の過半)等秘密投票の實施以來大に惡弊を減じたるは事實の明白なる所にして其他全然秘密の制となさゞるも一部に之を實行するもの亦少なからず何れも良蹟を見ざることなければ今は歐米學者間にても秘密投票は代議制度に離る可らざるの法なりとて議論恰も一定したるが如し凡そ今の政治社會に撰擧競爭の醜聞を聞き其弊害を知りながら尚ほ依然として記名公開の投票法を墨守するは日新の新事に迂濶なる者と云ふ可し我國撰擧の實状彼の如く各國投票の實例此の如くなるにも拘はらず政界に秘密投票法の議論なきは抑も如何なる次第なるや我輩は之を以て漫然政治家輩の怠慢不注意のみに歸せず其心中寧ろ憫む可きの情状あらんを疑ふ者なり此程の紙上に「秘密投票の制を實行す可し」と題して陳べたる如く無事に苦む代言人が人の起訴を促し病家に乏しき庸醫が流行病の蔓延を喜ぶに等しく世の中には所謂政技者とて人の政熱に狂するに乘じて自から利せんが爲め撰擧等の塲合には務めて人民を教唆煽動して以て業となすの一流なり此輩の爲めに謀れば競爭のますます劇くしてますます騒々しきこそ得意なれば今若し不幸にして秘密投票の制を採り例の贈賄脅迫等の運動も漸く無益の勞に屬して復た政技者を俟たざることゝもならば是れぞ由々しき大變にして訴訟の依頼なき代言人の如く病家を離れたる醫者の如く忽ち衣食の邊に不自由を感ず可し然り而して今の國會議員中には能く此政技者流の難澁にも頓着せず斷然として其糊口の法を奪ふの議論をなすに忍びざるの情實ありという盖し議員が當撰競爭の當時を回顧すれば政技者の勞こそ最も有力にして今日首尾よく議員の地位を占得たりとて俄に之を疎外するは事情の許さゞる所のみか却て地位を危ふするの惧なきにあらざれば假令ひ秘密投票の制は一の敷なしとするも念ふて茲に到れば双方の情實如何ともなす可らざるものありて政技者の議員に對する勢力は實に傍人の推測し難きものと聞く現に撰擧被撰擧權擴張論の如きも啻に表面の理論のみならず其實政技者流の注文に由るものにして此流の人々は兩權を得るの資格なき者こそ多きが故に議員は枉げて擴張を唱ふるものゝ由實地に通する者の言ふ所なれども眞偽は擱き兎も角も政技者の勢力決して侮る可らざるを見るに足れり憐む可し秘密投票の制も議員の口に上らざれば以て法律と爲す可らず而して議員の口は政技者の爲めに箝せられて自由ならず之を稱して政技者の時代と云ふ誣言にあらざる可し政治家時代ならばまだしもなれども政技者時代とは政界全體の爲めに聊か赤面の情なきを得ざるなり