「支那日本の銀勢」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「支那日本の銀勢」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

過日北支那日々新聞の日本新聞の日本通信員が金銀問題に關する松方伯の談話なりとて報じ來りたるものを見るに文辭簡單にして詳細を知るに由なりと雖も伯が日本に金貨本位を採用せんとするの意あるは疑ふ可らず思ふに伯の議論の要點は左の二項に外ならざるが如し

第一 銀は二十年來次第に下落し今も尚ほ下落しつつあり

第二 故に金唯一の安全なる本位なり印度は〓に金本位を採用したれば日本も亦其例に〓ふ可し

若しも松方伯にして英國及び其他の金貨國に行はるゝ書籍新聞紙などに現はれたる論説を聞て之に心〓したる人ならんには銀の相塲が近來大に下落したりと想像するも決して怪むに足らず盖し歐米諸洲の經濟界は極めて繁雑にして殊に金銀問題と密接の關係を有して種種雜多の影響を及ぼす原動力の種類甚だ多きを以て遇ま金銀の相塲に變動を生ずることもあるも二者の孰れが騰貴し孰れが下落したるものか之を知ること甚だ易からず從て此問題に就ては學者政治家の議論も更に一定せざる其上に金力殆ど無盡藏とも云ふ可き富豪の輩が自家一身の利〓を謀るが爲めに近來の變動を以て單に銀價下落の一因に歸し天下の人をして金價は古來一定不變なりとの説に化せしめんとて畢生の力を盡して運動するを以て遂に銀價下落の説に勢力を添へたることなれども實際に注意して二十年來金銀の歴史を調査するときは目下の變動は銀の下落に非ずして金の騰貴なりとの事實を發見すること難きにあらざる可し而して此調査を爲すには經濟〓會の繁雜極りたる歐米諸洲に於てするよりも二十年前より常に金銀問題の眞相を抹殺し隠蔽する如き勢力の存することなき支那日本等に於てする方遙に便利なる可し過日の論文中にも記したる如く支那日本等にては二十年前と今日とを比較して銀貨に對する諸物品の相塲は毫も騰貴したるの跡を見ず即ち銀價の下落せざる明證にして松方伯が此〓然たる事實を目撃しながら尚ほ銀價下落論を主張するは如何にも解し難き次第なりと云ふ可し抑も物價表に依て通貨購買力の〓〓を示すは經濟學者の常に行ふ所にして金銀相塲の變動を示すには是れに勝りたる良法なかる可しと雖も物價表のみにては俗人の爲めに或は少しく理解し難き恐あるを以て余は茲に誰にも分り易き樣、人民箇々の生計の費用を標準として以て銀價の下落せざる事實を明にす可し即ち余が今記さんとするは上海にて或る外國人に雇はれ居る御者(支那人)の生計に關する事實をして此ものは支那の下僕及び被雇人の好き代表者と見做して可ならんと思はる同人は十七年前今の主人に雇入れられ毎月墨西哥銀二十一弗を受取り其代に馬車馬一頭を〓し及び其飼養料を自辨し又自費にて馬丁一人を雇置く約束なり同人は毎月馬丁の給料に三弗を拂ひ老母に二弗を〓與し殘り十六弗にて馬を飼養し又自身と妻子五人との活計を立て居れるが右二十一弗の外に何等の〓入なきにも拘はらず十七年來毫も給金の不足を感じたる模樣見えず未だ一度も〓給を願ひ出でたることなし彼の者の始めて雇入れられたる時即ち千八百七十六年には墨西哥銀一弗は英貨三志十片四分三に當り十六弗は即ち三封度二志三片なりしに今日は一弗銀の相塲二志六片に下落し十六弗は僅に二封度に過ぎず即ち十七年前と今日とを比較すれば正しく一封度二志三片の差あるを見る可し若しも此差にして金貨論者の云ふ如く全く銀の下落を生じたるものならんには今日十六弗の購買力に異ならざれば右の御者は現在の給料を以て我家族及び飼馬の食物その他の必要品を求るに當り十七年前に買ひ得たる量の三分の二をも得ること能はざる勘定にして若しも然るときは一家擧て餓死するの外ある可らざること論を俟たず然るに事の實際に於て御者が今日十六弗を以て充分に生計を立て毫も不足を感ぜざるを以て見れば則ち十七年間普通物價に對する銀の價は依然として異なることなく却て金價のみ獨り三四割方騰貴したるの事實明なりと云はざるを得ず右は唯手近き一例を擧げたるものなれども世間に此類の事實は尚ほ甚だ多からん今日支那人民の十中八九は勞働者にして日々の賃錢に依て生計を立る者なるが若しも其賃錢の購買力に一割を〓ずることもあらんには彼れ等は忽ち〓寒に迫られ非常の惨境に〓るは必然なり左れば若しも金貨論者の説の如く銀の購買力が過る二十年間に果して三割以上〓少したるならば正しく其割合に支那勞働者の賃錢は騰貴したる筈なり然るに支那の事に就て最も經驗の確なる人士は皆異口同音に右の時期に勞働者の賃錢の變働せざることを證明せり東洋の銀價國にては二十年來人民の賃錢は更に騰貴せざれども是れが爲め勞働〓會に不平の聲を聞きたることなきのみならず人民皆其堵に安じて世界の金銀勢に變動ありしことなど夢にだに知らざる如し然るに之に反して歐米の金貨國は何れも近來非常の困難に〓らざるものなく物價は日に〓す下落し商賣は振はず銀行は破〓し商店製造塲は分散し勞動〓會は一般に仕事なきに苦しむ等通貨の騰貴より生ずる有らゆる徴候は皆現はれて判然たり今若し公平なる裁判官をして金銀孰れか通貨として最も適當なる性質を具ふつやを判斷せしめたらば二者の孰れに團扇を揚ぐ可きや吾輩故らに爰に答へざるも讀者の〓に知る所ならん斯の如く事實の爭ふ可らざるものあるにも拘はらず金貨論者が金の騰貴より生じたる災をば悉く銀の罪に歸し頻りに廢銀説を唱へて止まざるは誠に不可思議千萬と云はざる可らず而して又松方伯が斯の如き見易き事實の近く日本支那に存在するをば更に顧みる所なく却て歐米の黄金富豪家が世界を犠牲にして自家の私利を謀らんが爲めに〓に一種の學者政治家をして主張せしむる説を信仰するは是れ又誠に不思議の至りとこそ云ふ可けれ

今日爲替相塲の下落しつゝあるは支那帝國の爲めには無上の幸にして此際大に木綿絹物の製造を興し又國内無數の鐵鑛を開て〓鐵物の製造を始め歐米諸國と競爭せば輸入品の數量を殺〓して大に國の利〓となる可きは必然なれども惜ひ哉支那の文明は未だ斯る大企圖を成就せしむるの地位に達せず且つ人民の性質遲鈍にして經濟上の利〓を〓るに敏ならざれば恐らくは今日の好機會を空ふすることならんなれども之に反しては日本は充分に此機を利して自國の繁榮を致すの力あるものなり該國には〓に製造所あり鐵道あり其事業の發達、固より支那の比に非ざれば目下の勢に乗じ奮起して内國の工業を盛んせば必ず非常の利〓を博するに相違ある可らず然るに何を苦んで日本は今日わざわざ金貨國と爲りて此得難き好機會を失はんとするか吾輩は更に其理由を了解すること能はざるなり或は印度の例に〓はんと欲するものならんか印度政府は年々英國に向け多額の金貨を仕拂ふの義務あり爲替相塲下落の爲めに從來の租税にては到底これを滞なく支辨するを得ざるを以て已を得ず留貨に人爲價格を附して金貨國の姿と爲りたるものなれども日本には固より斯る事〓の存ずることなければ敢て印度政府の窮策を學ぶの必要ある可らず之を要するに日本なり支那なり今日〓に銀を本位と爲す國々が金價騰貴の際に臨んで故らに金本位に移らんとするは經濟の原則に照して策の最も愚且拙なるものなりと吾輩の確信して疑はざる所なり