「世界中最も速き列車」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「世界中最も速き列車」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我鐵道理事法の不行屆なる箇條は枚擧に遑あらず汽車速力の鈍きが如き最も堪へ難き所な

れば過般以來毎度本紙上にも論して讀者に謀る折ネ、米國發兌の雜紙を見れば左の一編あ

り彼國の汽車は既に一時間八十哩の速力に達して年々歳々唯進むの一方のみなるに我鐵道

は其創設以來凡そ二十哩内外の定數に止まりて曾て改進の痕なし理事者は此事實を見ても

尚ほ今日の現状に安んずるを得るか我輩は唯その人の優良なるに驚くのみ

レールロードガゼツト記者 ブラウト氏原文

記者は今年五月二十八日の午後三時に紐育を出發してシカゴに行き同三十日の午前十一時

十五分に再び紐育に歸り來れり即ち余は四十四時十五分間に往復千九百二十八哩の路程を

旅行したるのみならず其中四時間をシカゴに費して所用を便ずることを得たるものなり而

して余が此旅行は全く商用の爲めにして决して奇を好み名を賣らんとするの心より試みた

るものに非ず男女老若を問はず何人にても同樣の旅行を爲さんと欲する者は其目的を達す

るに聊かも困難を感ずることなかる可し余は右の旅行中常に執筆を以て時を消費し夜は最

も穩に眠り三度の食事も車中にて靜に快く食することを得たり列車の進行は如何にも滑に

して乘客は更に激動を感ずることなく唯時々窓外を眺め電柱哩程標などが非常の速力を以

て後に疾走するを見て始めて我が乘れる車の進行如何に迅速なるかを知り得るのみ單に車

の内部に目を注ぎたるのみにては一處に停車するものと殆んど區別すること能はざる程な

り此列車は二十時間に紐育とシカゴとの間九百六十四哩を走るが故に其平均速力は一時間

四十八哩十分の二に當るの割合なれども途中停車塲に止まること都て九回にして其内七回

は機關車を附換へ列車の車輪を檢(〔手偏〕)査する等の爲めに隨分長く停車するを以て是

れ等の停車時間を差引くときは平均の速力更に大なるを知る可し余は試に列車の走ること

最も速なりと思はるゝ時に自から時計を以て之を計りしに二十五哩の線路を平均一時間七

十哩の割合にて通り拔け且つ其内一哩をば僅に四十三秒(即ち一時間八十四哩の速力)に

て走りたるを發見したり

抑も紐育中央鐵道會社と其聯續線なる湖岸鐵道會社とが此度び前記の如く紐育シカゴの兩

市間に二十時間列車の往復を始めたるは鐵道世界に於ける近來の一大事件にして是れを以

て單に鐵道會社の廣告手段などと想像するは誠に皮相の判斷のみ千八百八十一年に紐育シ

カゴ間の列車時間が減縮せられて二十六時間と爲りたるときには尚ほ其上に強ひて一二時

間を減ずるの必要はなかりしなり何となれば旅行の時間が二十四時にても又二十六時にて

も乘客は必ず一夜を汽車の中に費して翌一日は商賣を休まざる可らざればなり或は二十四

時間なれば夕にシカゴを出發する乘客が翌日の同時刻に紐育に着して其晩の演劇を見物す

ることを得る等の利uもなきに非ざれども普通商賣人の都合より云へば寧ろ毎夕出發する

廉價なる三十六時間の列車に乘り車中に二夜を費して翌々日の早朝先方に着する方經濟に

して且便利なる可し然るに列車の時間減じて二十時となれば其結果大に異なるものあり此

列車に乘る者は僅に三日の間に兩市間を往復して一日も仕事を休むの必要なし例へば紐育

の商人が午後三時の列車にて出發すれば翌日午前十時にはシカゴに着す可し(紐育とシカ

ゴとは經度の相違の爲め一時間の差あり)其れより四時間同市に滯在して業務を濟ませ午

後二時發の列車に乘込むときは翌日の午前十一時十五分に紐育に着するを以て其日も亦休

業するに及ばざる可し左れば此度の二十時間列車は全く商人の便利を謀りて設けたるもの

にして之を名づけて商人列車と云ふも可なり其商賣社會に及ぼす利uの廣大なるは尋常人

の容易に想像し能はざる所なり若しも今後此列車の時間を減縮して十八時間と爲すことも

あらんには是れが爲めに商人社會の蒙る利uは尚ほ一層大なる可きは論を俟たず未來のこ

とは容易に豫言す可らずと雖も余は今後二年を出でざる中に紐育シカゴ間に十八時間列車

の往復するを見ることあるも决して驚くことなかる可し現に今日にても十九時間に兩市の

間を旅行するは出来難きことに非ず即ち湖岸鐵道の汽車をして紐育中央鐵道と同じ速力を

以て走らしむれば總線路の平均速力五十哩十分の六と爲り紐育とシカゴとの間を十九時間

にて走ることを得る筈なり左れば二十時間列車の成績宜しき上は更に十九時間列車の往復

を見ること自然の順序なりと云ふ可し且つ又今後兩市間の汽車速力を攝iせしむる大原因

は即ちペンシルヴエニヤ鐵道の競爭なり同鐵道會社は曾て他に卒先して兩市間の列車時間

を二十六時四十五分に減縮し次で又二十五時に改めたる程の次第なれば今日その競爭の大

敵たる紐育中央鐵道にて二十時間列車を實行しつゝあるを知りながら空しく手を袖にして

傍觀することは萬々ある可らず同會社にても必ず紐育中央鐵道と同じく遠からず二十時間

列車を走らすることゝとなる可く然る後は又遠からずして兩鐵道とも十九時間列車を設く

るに至るは勢の當に然る可き所なりと云はざるを得ず十八時間列車に就ては余は何とも豫

言すること能はずと雖も彼の大西洋を四日間にて渡航す可しと云ふプロフエツソル、バイ

ルスの汽船出來上るまでには必ず紐育シカゴ間を十八時間に疾走する急行列車も出来るこ

とならんと信じて疑はざる者なり