「鐵道會社の儉約は遂に危險なきを保證す可らず」
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本文
前節に云へる如く鐵道會社素町人の會計法は唯眼前に収入の數を多くして永遠に積極的の
利uを思はず公衆の不便利を度外視するのみか併せて自家の不利を知らざるが如き實に驚
く可き沙汰なれども此事たる必ずしも會社役員の罪のみに非ず凡そ今の鐵道の株主たる者
は其事業に利uを期すること大に過るか又は其株券を弄び配分利uの多きを聲言して投機
射利の骨牌に用ひんとする者多きが故に會社の事務を整理して正々堂々の基礎を固くし
徐々に進んで永年の利を謀らんとすれば忽ち目下の配分を減して株主をして失望せしめ又
は其投機の掛引を妨げて大不平の聲を聞くに至る可きが故に安全を主とする役員の身とし
ては不本意ながらも社費を節減して利uの大なるを裝はざるを得ず况んや其役員が自から
投機社會の人なるに於てをや如何なる無理を犯しても利uを示して社運萬歳の虚勢を張る
こそ當然のことなれ然るに爰に欺く可らざるは事物の道理にして殊に鐵道の事業は一より
十に至るまで有形の器械より成立ち直に眞理原則の支配を受けざるものなし線路の修繕を
怠れば汽車の震動を揩オて時として危險の虞あり機關車の監視を忘るれば蒸氣を漏らして
調子の狂ふことあり一針の穴、一鐵の錆、一石の動搖、一柱の傾斜、この影響する所大な
るのみならず如何なる大災害も亦測る可らず扨この種の不虞に備豫するは人の力に依頼す
るの外なかる可し是即ち鐵道に人物を要する所以にして其總務理事者に才學兼備第一流の
人を撰ぶは勿論以下の事務員技師より驛長車掌の末々に至るまでも大は大とし小は小とし
て各責任を負ひ晝夜不斷細々些末事に注意して秋毫の遺漏なく瞬間の油斷なくして始めて
安全の鐵道を得べし此等の點より視るときは會社の會計上に錢の大切なるは固より言ふま
でもなきことなれども所謂素町人の根性を以て一錢金の得失に精~を動かし店の商品を仕
入する筆法を以て人物を買入れんとし之を評價し之を直切り其買入れたる後にも亦價の低
減を談するが如き有樣にて果して能く安全を保證す可きや否や聊か掛念なきを得ず現に今
日或る一二會社の如きは其線路機關車等の注意不行屆にして汽車の運行穩ならず甚だしき
は蒸氣の罐より漏るゝを目撃したる者さへありと云ふ實に恐る可きの極なり畢竟その然る
所以の本を尋れば株主の意を迎へて經費節減収入揄チを旨とし以て配分uを多くし又株主
市塲の景氣を維持せんとするの熱心よりして遂に此極に陷りたることならんのみ凡そ有情
の人間にして錢を欲せざる者なし分り切つたる事實なるに役員等の給料を薄くして先づ其
情感を傷ひながら萬事に付て儉約儉約と命ずるからには其影響は必ず有形器械的の部分に
發して害なからんと欲するも得べからず我輩は萬般の事業に冗費省略の要を知らざるに非
ず常に之を論じて人の耳を煩はしたる程の次第なれども今の鐵道會社に就ては其實際に現
はれたる不都合の事實を見て之を其會計法の失當に歸せざるを得ず或は會社は金に吝なる
に非ざれども事務の整頓せざるが故なりと云ふか然らば則ち其不整頓は會社重役の罪なり
重役等が種々無量の他事に手を出して本務を怠り一人にして二三會社の事を擔任し又は會
社の事務よりも投機射利の事務に忙しきが故ならん斯る人物に大切至極なる鐵道を托す可
らざるは無論のことなれば速に之を放逐して可なり今こゝに事實を以て讀者の了解を易く
せんとするには都鄙に行はるゝ營業馬車こそ屈強の一例なれ此馬車も十數年前發起の時代
には相應のものにして車も一寸奇麗なれば馬も逞しく左まで不體裁のことなかりしに何か
の事情の爲めに最初の發起者は去りて次第に他の手に移ると共に諸方に同業を企るもの多
くして今は殆んど下等社會の營業と爲り之を主宰する人物とてはなくして其經費に節減を
加ふること甚だしく車の修繕に怠るのみか飼料をも大に節減して馬は骨立、車は我他彼此
これを名けてぼろ馬車と稱し一見醜に堪へず左れば今日の鐵道を以て直にぼろ馬車に比す
るは事の大小物の美惡固より同日の論に非ずと雖も其事物創造の際に特に缺典もなかりし
ものが歳月を經るに從ひ次第に經費を節減して次第に主宰以下の人物を失ひ次第に事業の
不體歳を致すの順序に至りては今の或る鐵道會社も彼のぼろ馬車の粗惡に傾きし當年の其
初歩を歩して同樣の方角に向ふものと云ふも或は不可なきが如し馬車粗惡の災は路傍に瘠
馬を斃し車を覆へすに過ぎざれども汽車の變は則ち然らず我輩は他年一日杞憂に堪へざる
者なり若しも鐵道會社の當局者たる株主を始めとして役員等が此杞憂を共にするならんに
は何故に其規模を大にし事務を活溌にして積極的の利uを謀らざるや僅に眼前の収入を多
くせんとして限りある經費を節減し知らず識らずの間に危險の方向に走りながら却て永遠
の大利uを空ふするとは一文愛しみの百知らずと云ふ可きのみ