「官民の間」
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時事新報に掲載された「官民の間」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
兎角疎縁なり斯くては互の情實相通せずして不都合なりとは毎度讀者の言ふ所にして我社
會積年の通弊なるが如し左れば其情實の相通ずるとは双方互に政治上の關係を離れて私に
交際徃來の道を開き意に投して往き興に乘じて來り共に花鳥風月の樂しみを與にして物外
に悠然たることもある可ければ或は其相接するの間に人事の要談に及び事業上法律上の議
論を上下することもある可し又或は直接に事に當りて官民の利害を説き表向きに四角張つ
ては互に誤解して情感を傷ふのみか之が爲めに無uに時を費して澁滯す可き處をも談笑の
間に辨して以て隔靴の嘆を免かるゝこともある可し是れぞ實に官民交際の功能なる可きに
近日の世情を見れば何か政府の官吏が人民と共に談じ共に飮みたりとて恰も人間社會にあ
るまじき事のやうに喋々する者あり其事情風聞の次第は事に妨なきを限りとして本紙上も
記したる所なれども我輩は斯る風聞の世上に流布するを悦ばざる者なり盖し彼の喋々論者
は徒に人の秘密を公にして自から樂しむに非ざれば直言以て世の風儀を矯正せんとの婆心
なる可けれども社會の弊事を矯めて廣く人心の非を正さんとするは易からざることにして
之を喩へば虚弱なる身體に滋養法を授るが如し要は唯徐々にして怠らざるに在るのみ然る
に今世間に一二の風聞ありとて事ネの虚實をも糺さずして輕卒にも風聞に和するに風聞を
以てし甚だしきは故さらに風聞を製作して虚を吠へ實を傳へて其事は都て他の秘密に亘る
と云ふ矯正の法に非ざるなり人間の生活には公あり私あり表あり裡あり分り切つたる事に
して其裡面の私は君子の愼んで言はざる所なるに取留めもなき風聞に雷同して公言憚らず
とは性急の甚だしきのみか世の風儀を正さんとして夫子自から先づ之を破る者と云ふ可し
近日或は政府部内にも紀綱云々の説あるよし一國の政府に紀綱の大切なるは今更らの新發
明にあらず天下の大事に當りて主義方針の動搖を防ぐは紀綱の如何に依ることにして政府
の紀綱兎角不締にして威巖に乏しとは我輩の夙に憂る所なりしかども今この紀綱論が風に
傳ふる世間の評判に誘はれて部内に發生したりとは政府は風聞の爲めに動搖するものにし
て紀綱論の發生は紀綱なきが故なりと云ふも可なり左れば今回の一事の如き豪も意に介す
るに足らず政府は政府の行く可き道を行きながら官民調和の一義は常に之を忘れずしてま
すます交際の區域を廣くし共に語る可し共に飮む可し自由自在に徃來して苟も疎縁の痕な
く眼中世上の嫌疑を見ずして天下の人を友とし當局の持病たる蟄居自尊の殿様流を止めに
して男らしく運動せんこと我輩の飽くまでも勸告する所なり但し人生の交際にも自から差
等あることにして君子の友あり小人の友あり君子は先づ君子に交はりて漸く小人の社會に
其交を廣くし小人は漸く君子の邊に近づいて漸く其氣風を高尚にして始めて爰に圓滿なる
交際社會を出現す可き順序なれば政府の君子未だ君子に交はらずして先づ小人を近づけ爲
めに物論を招くが如きは交際法の得たるものと云ふ可らざるなり