「尚武の弊」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「尚武の弊」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

尚武の弊

維新の後西洋文明の浸漸と共に讀書究理のこと頓に世間一般の流行となり從來武を以を一身の職務となしたる士流の子弟も佩刀と共に武骨の風を脱して文事の一方に偏し其極日に體力の消衰するを念はず只管學問に志して遂に精神と身體との權衡を失ひ恰も劔と鞘と連合はずして相損するの有樣となりしかば世の識者は其弊の决して等閑に付す可らざるを悟り種種矯正の方を講ずる其中にも全國徴兵の法を布き貧富貴賎の別なく苟も國民たる者は悉皆これを兵籍に編入し自他平等一度は必らず兵員たらざる可らざることと定めたらば由て以て間接に直接に國民の體力を養ひ痩弱■(おんなへん+「束」+「欠」)懦の弊を矯むるの効あると同時に兼て護國の用をも爲す可しとの趣意を唱へ時の政府も此邊に見る所ありしことならん遂に全國兵の法を實際に施すに至れり爾來尚武の風は體育の論と共に漸く振起して官私學校の生徒も亦銃を肩にし將た各地方に軍人優待の會合あるなど氣勢一變の色を呈するに至りたるは本來我輩の願にして敢て間然する所なしと雖も人間萬事すべて其事の由て起りたる所以の根源を忘却するときは其末端に至り思はざる間違を生ずること往往にして尚武論も亦その一例なるが如し當初識者の所見は我國を以て尚武一偏の國となすの意は更になく唯その氣風を盛にしたらば自から國民の體質を剛莊ならしむ可しとの考に外なかりしに説の俗問に轉轉する際その本旨は全く誤解せられて體力養成は單に尚武の風となり軍人の優待は變じて武人の得意となる等奇妙なる現象を呈するに至りしこそ意外なれ過般西國の或る地方に於て陸軍の實地演習を催ほしたる際某地方官は演習に付一般の心得書なるものを管下に配付せりといふ取て之を見るに都て二十何箇條にして其中特に奇なる箇條を擧ぐれば

 一軍隊に對しては誠實を旨とし决して輕薄の振舞ある可らず

 又軍隊に販賣す可き物品は平常の價額により决して高利を貪る可らず

 又室内外の掃除并に便所等を清潔にす可し

   但時機によりては假便所を設く可し

 又見苦しき疊建具は可成注意す可し

 又床ある室には掛物を懸く可し

第一條の誠實輕薄云云とは果して何事なるや小學に用ふる修身書中にもある可きことにして苟も同類の人間に對して云ふ可き言に非ざるは申す迄もなきことなり其次に軍隊に販賣す可き物品は云云とあれども物に一定不變の價なきは今更云ふに及ばず田舍の村落に幾千の兵員一度に宿泊するときは忽ち諸物品の不足を生じて頓に需用供給の釣合を失ふが故に俄然物價の騰貴するは勿論のことにして經濟の定則は動かす可らず且つ高利を貪るは商人の本色にして其高利を貪るに素より誰彼の差別はある可らず若しも軍人に對して利を貪ることを許さざれば官吏に對しても亦同樣ならん此の如くんば到底商人の立行く道はなかる可し其次の但書には時機により假便所を設く可しとあり是れは貧窮人にして其便所の極めて不潔なるときは體裁甚だ宜しからざるが故に假便所を設く可しとの意ならんなれども夫程の貧窮人が假令ひ粗造にもせよ若干の時間と資財とを以て軍人の爲めに特に新規のものを造ること决して容易ならざる可し其次に見苦しき疊建具は可成注意す可しとあり注意とは如何にも漠然たる言葉なれども凡そ人間の家に居るに自から好んで粗末なる疊建具を用ふる者はある可らず貧困にして家内の造作などに手の行届かざるより已むを得ず辛抱するものなり然るに一夜軍人の宿泊の爲めに疊の表替障子の張替をも爲さざる可らずとは隨分困却の次第ならん其次の掛物云云に至ては萬人の視る所唯奇奇妙妙意外千萬なる心添と云ふの外ある可らず但し右の條條は其標題にもある如く一般の心得書にして法律規則に非ざれば之に遵ふと否とは人人の勝手次第にして唯その奇を一笑す可きのみなれども寒村僻地の愚民の目より視れば知事郡長村長等の手より發したるものは悉く御布令にして素より法律と心得とを區別するの明あるにあらず如何なる不都合のことにても違背す可らざるものとなすは其常にして且つ郡村吏等が各その手■(てへん+「丙」)を顯はさんとして心にもなき不埒を恣ままにし無告の愚民を恐嚇叱咤することもあらん以ての外のことと云ふ可し抑も兵は護國の必要、今の世界に在て國の獨立を謀らんとすれば其國相應の軍備なかる可らざるや勿論と雖も軍備は其國民を護るが爲めの軍備にして愚夫愚婦を壓するの具にあらず萬一にも其權威を恣ままにして軍人の威張るが如きあらんには國安の爲め文明進歩の爲め我輩は力を盡して其非を辯ぜざるを得ず尚武の風と武人の跋扈とは其間毫髮を容れず注意す可きことにして今の國情たる武力一偏に依頼して我獨立の維持す可らざるは云ふ迄もなき次第なれば深く此邊の事情を察し些末の事と雖も輕輕に看過せざらんこと我輩の當局者に望む所なり