「歐洲諸大國は能く其軍備を維持し得可きや」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「歐洲諸大國は能く其軍備を維持し得可きや」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

歐洲諸大國は能く其軍備を維持し得可きや

        サー、チヤアレス、チルク原文

有名なる英國の政治家某氏が此程歐洲諸大國は遠からずして大に其軍備費を削■(にすい+「咸」)するか然らざれば身代限するか孰れか其一を撰ばざるを得ざるの塲合に立至る可しとの説を爲したるに就ては當雜誌(北米雜誌)の記者は余に向て此事に付き意見を述べんことを求めたり

余の所見を以てすれば今日歐洲の諸強國が軍備費用の爲めに果して某氏の信ずるが如く非常に窮迫せるや否や聊か疑なき能はず盖し伊太利のみは或は今後陸軍の經費を■(にすい+「咸」)ずることもあらん同國が何故に今日の如く強大なる陸軍を維持するの必要あるかは識者の知るに苦しむ所なればなり墺地匈牙利は近頃は稍や頭角を縮めつつあれども露西亞なる強敵の存する間は其兵備を怠ること能はざるは明なり而して同國の財政は能く現在の陸海軍を維持するの力あるものの如し露西亞は二十五年前既に非常なる財政困難に陷りたりとの評判盛にして千八百七十年の頃余が同國に在りしときには今にも政府は身代限を爲すに相違なしと人みな信じ居たりしが其後同國は非常に陸海の軍備を増加し今日と爲りて見れば其財政は二十五年前よりも却て豐なること人のみな許す所なり佛蘭西の軍備は歐洲諸大國の仰で以て標凖とする所のものなるが同國が毎年陸軍に費す金額は大英國を除くの外、何れの國の費す所よりも多く又其海軍費も近來益す増加し最早數年を出でずして大英國を凌駕せんとするの勢あり然れども佛國人民の豐富なる斯の如き巨額の入費を拂ふて更に困難の色なく未だ容易に支出の路に窮す可しとも思はれず盖し該國は今日外に在ては殖民地を開き内に在ては諸般の事業に補助金を與ふる等の爲めに毎年巨額の錢を徒費しつつあれば此類の經費に付て少しく儉約するときは少なからざる剩餘を生ず可きが故に今俄に兵備を■(にすい+「咸」)少するの必要に迫らるるが如きことは萬萬ある可らず獨逸は陸軍増加の點に於ては常に佛國と並び立て一歩も讓ることなしと雖も海軍は左程實際に必要ならざるを以て近來稍や増加の割合を緩くしたり

歐州諸國が毎年軍備の爲めに費す金額を明細に知ることは甚だ容易ならず是れ一には何れの國にても軍備費の豫算を「通常」と「非常」との二種に分つの習慣あると又一には租税を以て支拂ふ經費と國債を以て支拂ふものと相混同し易きが爲めなり而して大概の塲合に於ては實際の軍備費は通常書籍などに記す所よりも大なるが如し余が今茲に記載する諸國の軍備費額は唯その大數を示したるものにして且つ數年間の平均を取りたる數なり大英國が毎年陸海軍に費す金高は凡そ二億五千萬乃至八千萬弗にして其内印度の爲めに費すもの最も大なり英國が斯の如き巨額の錢を費しながら其陸軍の兵數甚だ少なく又海軍とても世界第一とは云へ之を佛蘭西の海軍に比すれば唯少しく勝れるのみ誠に不經濟の至なりとて痛く攻撃する者も少なからざれども英國人民の富を以て是れ計りの金額を支拂ふは甚だ容易なる事にして彼の伊太利國民が現在の軍備費用を支出するに苦しむの有樣などに比すれば其負擔の輕きこと實に蚤痒も啻ならず印度の人民が重税に苦しむは事實に相違なしと雖も伊太利の有樣に引較ぶれば未だ未だ大に餘裕あるものと云ふ可し之を要するに英國及び印度の納税者が軍備費の爲めに身代限を爲すの時は尚ほ容易に來ることなかる可し

佛國の軍備費は年年凡そ二億弗なり同國の陸軍は實に驚く可き多數の兵士より成立ち且つ戰爭の凖備最も充分に整頓せり(唯其欠點は將校に老人多く又既に老朽したる將校を退くるの路なきこと是れなり)又海軍は唯少しく英國に劣るのみにして他の國國には遙に勝れり前にも記したる如く同國人民は更に納税の爲めに困窮するの模樣なく國會は却て政府に迫りて毎年軍備の費用を増加すれども國中これに向て不平を唱ふる者絶へてなし又佛蘭西は兵數を増加すると共に軍用物品の購入に非常の金額を費し現在の計算に據れば其原價凡そ五億弗に達せりと云ふ(但し軍艦砲臺の價を除く)目下佛國の公債利子は年年凡そ二億五千萬弗にして其高は次第に増加しつつあり然れども其増加する割合は數年前より漸く■(にすい+「咸」)少しつつあれば或は遠からずして新に公債を募集することを止め追追に現在の分を償還するの運に至ることもある可し兎に角に今日の處にては佛國は身代限の境界に近寄るよりは寧ろ次第に遠ざかりつつあるものと云て可ならん日耳蔓の陸軍軍費は一億六千七百五十萬弗なりとは二三の書籍に記す所なれども余の計算に據れば凡そ一億九千萬に近からんと思はる同國の公債は甚だ少なく人民は租税を納るに困難の樣子なし

露西亞の軍備費はルーブル貨の相塲一定せざるが爲め甚だ知り難し余の見込を以てすれば凡そ一億七千萬弗なる可し近年同國にては飢饉虎列剌等の災害打續きしにも拘はらず其財政は數年前に比すれば却て大に進歩を現はせり同國陸軍制の缺點は出師の凖備に手間取るの一事なれども其代りには常備兵の數非常に多く凡そ獨逸、佛蘭西兩國の常備兵を併せたる數に等し墺地匈牙利にては是れまで常に歳入に不足を告げたりしに近來に至りて珍しくも若干の剩餘金を生じたる程の次第なれば同國が身代限するの恐は當分なかる可し伊太利の有樣は全歐洲の中にて最も宜しからず同國には巨額の公債ありて政府は其利子を支拂ふが爲めに困難を極め居れり但し今日の處同國は陸軍を■(にすい+「咸」)少するも別段に危險なることなく現に最早や少しづつ削■(にすい+「咸」)を始めたり然れども尚ほ年年政府の會計、收支相償ふの塲合に立至らず

以上記したる如く今日細に歐洲諸強國の實情を吟味すれば唯伊太利一國を除くの外何れの國も差當り軍備費用の嵩むが爲めに身代限するの恐なきを發見す可し