「・斷して行ふ可し」
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時事新報に掲載された「・斷して行ふ可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・斷して行ふ可し
政府の當局者に果斷決行の勇氣なく常に世論の如何を考へて之に逆ふなからんことを勉め遂に所謂八方美人の稱を得るにまで至りし所以のものは畢竟するに天下多數の人望を博して以て吾味方を多くせんとするの意なる可しと雖も我輩の所見を以てするに斯る方策は偶ま以て自から行政の區域を縮小するに過ぎずして到底何等の效能ある可らずと信ずる者なり我輩の毎度云ふ如く今日在野政客の目的は唯取て代はるの一事にして必ずしも眞面目に政法の利害を喜憂するに非ず苟も施政上に論す可き事を見出し之を論じて政府の困却す可き見込みあれば左右を顧みず眞一文字に打て掛るのみ或は政府に在る者とても其在職中こそ不平を發せざれども一朝罷められて民閒に出るときは忽ち政府の敵と爲りて攻撃を始めざる者なし政海の事情既に斯の如くなれば政府が如何に手段を盡して此種の人々の歡心を求めんとするも苟も之に官途の位置を與ふるに非ざれば政治上の方針を共にすること能はざるや明なり官途以外滿目皆政敵なりと覺悟して大なる閒違ひはなかる可し或は今日自家の味方として眞に利益ある可き者は政爭の外に獨立する有識着實の人士なれども元來此種の識者は所謂政慾なき代りに他に對して會釋も亦少なく虚心平氣にして政府の爲す所に注意し其主義方針にして果して國家に利ありと認れば之を助け、否ざれば之に反對して會釋もなく攻撃するの常なれば若しも政府が八方美人の妙策を行はんとして其圖に當らず虎を描ひて猫に類し國家の重要問題に斷行の勇なくして之を曖昧模糊の中に埋沒し一方に人心を得ずして一方に國事の擧らざるが如き有樣にては如何に公平無視の論者にても當局者は單に自分の地位を維持するに汲々たるのみと推察して其心情の卑怯なるを惡み遂には之を疎外して顧みざるに至る可し左れば政府の當局者が求めて得べからざる政友を得んとして却て彼等の侮を招き偶ま其言を容れて志願を達せしむるも俗に云ふ食逃げにして毫も其心を和するに足らざるのみか政爭以外の人にまでも疎外せられて到底何事をも爲すに由なく心に斯くと思はざるも爲政の地位に居て政を爲さず唯その地位に粘着するの事實を示すが如きは如何にも不甲斐なき次第にこそあれば元老諸氏も此處は老勇を鼓して前後左右を顧みず唯一方に進んで思ふ所を斷行す可きのみ今の政府に人望はなけれども信用は尚ほ未だ地に落ちず人望と信用とは別のものなり西洋の或學者の言に熟ら社會の有樣を觀察するに人閒の多數は此世界に生息せんが爲めに飮食するにや又は飮食せんが爲めに生息するにや之を知るに苦しむと云ふことあり今この言を借用して今日我國の政治家は政を行はんが爲めに政府に在るものか將た政府に在らんが爲めに政を行ふものかと疑問して一寸返答に困るの事情なきにあらず當局者は之を自問して何と答ふることならん我輩の竊に聞かんと欲する所なり