「第五議會小史」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「第五議會小史」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

第五議會小史

曩に伊藤内閣が松方内閣の後を承けて政府に立つや見事元老の技倆を揮ふて巧に立憲の過

渡を濟せんと欲し夫の超然主義の傍に所謂人氣政略を以てせしが明治政府多年の不人望は

一朝俄に挽回す可くもあらずして民黨は少しも之に服せず却て望む所の敵こそ出でたれと

て反對の製烟ますます募り第四議會に於ては眞一文字に突進して政府をして最早や尋常政

略の施す可きなきに至らしめたるより爰に大詔煥發して暫く休戰の姿となり以て第五議會

に至りたることなれば第四と第五とは二期を通じて恰も一〓の如く决戰は第五の野に於て

約せられしなり左れば政府にして別に重大なる新事業の計畫を出さゞる限りは双方の爭ふ

所必らず豫算案ならんとは吾も人も期したる所なりしに事未だこゝに至らざるに早くも他

の波瀾に激せられ遂に解散を招くことゝはなれり

是れより先き超然政府も表面に論陣を張るのみならず裏面よりして議會に多數を得るの畫

策中なるよし風聞ありて隨て當今最大の政黨と聞えたる自由黨が頻りに軟化云々と評せら

れ其形迹稍や人をして疑惑を抱かしめたるのみならず議會開會の間際に及び所謂民黨三派

の交渉を拒絶するなど頗る變色を呈して迚も此有樣にては前期の如き猛省を以て政費節減

論を始終するの見込もなく左ればとて改進黨と同盟倶楽部のみにては所詮多數を制す可ら

ず國民協會にても亦伊藤内閣に對しては其政略を是認せずとて反抗の心勃々たれども元來

積極的主義と稱して結合したるものなるが故に豫算に就ては如何にしても改進同盟等と共

に消極的の方針を一にすること能はず數へ來れば豫算案の爭は政府反對派の爲めに不利の

憾なき能はずして即ち休戰以來の戰を繼續して最後の决戰を挑むに苦む樣の次第なれば是

に於てか反對派は何がな他の問題を提出し以て内閣の城下に肉薄するか或は少なくとも之

によりて反對派の擬勢を作り轉じて豫算に向ふの地歩をなさんとせり殊に國民協會の如き

は前内閣の際曾て吏黨と稱せられたるものにして爾後會勢甚だ振はざるの色ありしより一

方には現政府を苦め一方には民間の聲援を得て以て他黨に對せんと苦心しつゝある折しも

天下の風潮は漸く排外鎖國的の議論を喜ぶの有樣にして同會員中にも亦曾て大隈伯の條約

改正案に反對の運動をなしたる一種の人々も少なからざりしかば恰も好しとて同會の外に

更に非政社組織なる大日本協會なるものを設け政務調査所の邊をも連絡して自由黨に向て

は其内地雜居論を攻撃し政府に向ては條約厲行を督促し爰に一新旗幟を立つるに至れり扨

又改進同盟の二派に在ては當期こそ大决戰を試みんものと待設け居たりしに曾て莫逆を約

したる自由黨が早く既に改進黨攻撃を始め次いで三派の連結を破裂せしめたるが故に遺恨

骨髄に徹して忘る可らず是も必竟自由黨の領袖たる星亨氏の所爲なれとて氏は恰も怨府と

なりしが是れより先き取引所問題のことよりして有名なる改進新聞對星亨の裁判事件起り

延いて累を農商務省の當局者にも及ぼしたるより之を以て星氏を擯斥し之を以て官紀の弛

廢を責めんと欲したるは蓋し此二派に於て最も切なりしかども遉に二件の性質たる餘りに

粗卒なるを認めたるにや更に千嶋艦事件に就て滿腹の不平を注ぎ至難を政府に責めて以て

甘心せんことを期し併せていよいよ解散ともならば與論の喝采を博するの材料たらしめん

と企てたるが如し形勢かくの如く第四議會に在ては民黨なるものは自由改進、同盟の三派

なりしが第五期の政府反對黨は改進、同盟、國民、政務調査所の四派にして昨は民黨三派

と稱せしかども今は反對四派の文字を換用せざる可らざることゝなりて自由黨の顔色また

舊の如くならず左れば曾禰副議長の欠任により其改撰を行ふに當ても自由黨の片岡健吉氏

に歸せずして却て曩に不人望と視做されたる同盟倶楽部の楠本正隆氏が多數を占むること

となりしは復た以て反對派の意向を徴するに足る可く隨て議塲に現はる可き問題も略々豫

知するを得たりしなり

然るに政府は此際如何なる方針を取て對議會策と定めたるや其自由黨との關係は他人の得

て窺ひ知る可きに非ざりしかども重に豫算案を以て决戰塲と認めたる者の如く而して之に

就ては官制改革を以て答辨するに足る可きのみか所謂民黨三派の交渉も見事破裂し畢りた

ることなれば大略既に成れりと安心せしにや爾餘の問題は多寡を括り重きを置かざるの姿

にして僅に人氣政略として地價修正案を提出し徒に天下具眼者の譏を招きたるのみ胸中の

秘策ありやなしやは殆んど測り知る可らずと雖も兎も角も政機一切外に漏れずして民間政

治家をして揣摩臆測に疲れしめたるの一點は全く前内閣の如くならずして寧ろ特色をなせ

しが如し但し秘密と公開との優劣如何は自から別問題なるのみ

斯ていよいよ會議を開くや果せる哉劈頭第一に星議長信任問題起り次いで不明を謝するの

上奏となり更に懲罰に付することゝなり遂に除名を决しソレより議長の撰擧に副議長楠本

正隆氏を推し副議長の地位には安部井磐根氏を薦め轉じて官紀振肅の上奏となり總理大臣

は爲めに待罪の上書をなし樞密院の奏議によりて詔勅を煩はし最後に條約厲行の建議案出

づるや十日間の停會を命ぜられ再び開塲の即日を以て外務大臣が彼の排外論を反駁するの

演説をなし畢ると間もなく再び停會翌日は遂に解散を命ぜられたり而して千嶋艦事件は再

度までも質問に及びたるに政府は飽までも從來の方針を變ぜざる旨を答辯せしが衆院は更

に進んで上奏に訴へんとの積りなりしに事を果さずして中止せらる即ち十一月二十九日に

始まりて十二月三十日に終りたる一箇月間而も停會と休會とを差引くときは僅に半月間に

して其間率ね此等の紛擾に日を送り國家必要の法案は之を議するの遑なくして殊に航海奬

勵法案の如きも亦共に解散聲中に埋沒せられたるは人々の惜む所なりき以上の諸問題に就

ては其都度我輩の論じたる所なれば今爰に再びするを要せずと雖も星問題の如き始め何人

も之が提議者たるを避けたる樣の次第にして其可否は各員何れも心に頷く所なるにも拘は

らず之を起立に問へば無造作にも多數の賛成を表して遂に外國に迄も其失體を示したるは

無責任も是に至りて極まれりと云ふ可く又官紀問題の如きものを以て宸聽を煩すに至りた

るは以ての外とは云はざる可らず更に條約厲行案に至ては根を攘夷的思想に托し天下の愚

民を驅て殆んど國是を誤らんとす誰か驚かざるものあらんや左れば改進同盟の二派にては

前記の通り最も此等の諸問題の起らんことを希望しつゝも自身は唯賛成を起立に表するの

みにして星問題をば安部井氏をして發言せしめ官紀問題をば國民協會員の口を假り條約厲

行も安部井氏を促し獨り千嶋艦事件を云々したるに過ぎず而して事實に於ては星問題の結

果として自由黨に分離を生ぜしめ條約厲行案によりて解散となりたれば後來自派の爲め圖

り得て妙なるに似たれども衆院全體より之を眺むるときは唯一圖に政府を苦めんことを是

れ務め復た問題の性質如何を吟味するの餘地なくして識者の取らざる所を取り紛々擾々の

極解散せられて自から聲譽を損したるのみならず政府に於ては既に大に衆院の始末に苦し

み之を解散せんとするも解散の口實なき上に解散後の勝算も見込なくして後へには前内閣

の氣焔もあり左思右慮煩悶一方ならざりし折抦かゝる攘夷的の議論を發し政府をして立派

に解散の理由を得せしめたること返す返すも無謀の限りなれ俗に待てば海路の日和と謂へ

り攘夷的議論の跋扈もとより國家の慶事に非ずと雖も開會前には政府も敢て大日本協會等

に對して注意の色なく萬事甚だ無策なるが如く見えたりしが今や爰に部内の决心を一にし

て解散に次ぐに正々堂々嚴重の取締を加ふるを得るに至りたるは窃に政界の變象に得意を

催ほすことならん而して最後の决戰塲と定められたる豫算案は如何に成行きたるやと云ふ

に唯豫算委員が大削減を加へたりと聞くのみにして其儘となり空しく第六期に目送せられ

んとす若しも第六期を特別議會となし前例の如く時日なきの故を以て豫算を提出せざるこ

とゝもならば更に第七期にまでも繰越さる可し奇と云ふ可きのみ我輩をして憚る所なく評

せしむれば第五議會は實に衆院の爲めに最も多望なりしに却て最も失敗を重ねたるものと

云ふの外なし要するに衆院は能く内外の形勢を詳にして政府を苦むる所以の道を擇ぶこそ

將來注意す可きの要點なる可し