「外人の内地旅行」
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本文
外人の内地旅行
近來西洋人の我國に渡來する者日に益す多く何れも内地漫遊の間には少なからざる金錢を
散ずるの常にして是れが爲め各地方人民の年々に享る利益は實に莫大の高なり此程彼の外
客優待を目的とする喜賓會の調査したる所に據れば昨年中に外務省より内地旅行の免状を
受取りたる外國人の總數は六千八百餘人にして其旅行期限は平均凡そ百日なりと云ふ(本
月十日の時事新報雜報欄内)今假りに一人一日の汽車賃、人力車賃、宿泊料等を合して五
圓と見積り外に案内者の雇入、物品の購買及び諸雜費に五圓を要する者とすれば凡そ一日
の所費十圓にして百日には千圓の散財なり六千八百の漫遊客が各千圓づゝを費せば其合計
は實に六百八十萬圓にして是れぞ即ち我國民が一年間に外人の手より請取りたる金高なり
貿易以外に大なる商賣と云ふ可し昨年は歐米諸國全體に商賣社會の不景氣なりし其影響と
して渡來者の數甚だ少なかりしとは一般の評説なるにも拘はらず尚ほ且つ殆んど七千人の
内地旅行を試みたる者あり今後彼の商工業の有樣にして次第に好景氣を現はすことゝもな
らんには渡來の數は唯益す增加するの一方のみにして遂には現數の二倍三倍とも爲るは必
ず遠きに非ざる可し外客の漫遊は我國の爲めに取りて實に大切なる財源にして之を得ると
失ふとに由ては國家の經濟上に容易ならざる影響を及ぼすことゝ知る可し左れば日本國民
たる者は單に錢の損得よりするも務めて外人の愉快便利を謀り成丈け其漫遊の度數を多く
して滯在の日を長からしむるの工風こそ肝要なるに世間には此邊の利害損得を餘處に見て
却て彼の條約厲行など云ふ究窟なる議論を唱へ成丈け外國人を冷遇して之を遠ざくるの策
を主張する者あるこそ驚入たる次第なれ假りに厲行論者の説をして實際に行はれしめ内地
旅行に關する制限を態と嚴にして例へば旅行の免許は眞實に學術研究病氣療養を目的とす
る者に限りて他の紛らはしき者は一切禁制と斷行したらんには其結果は果して如何なる可
きや京都、奈良、日光等を始めとして都て漫遊外人の輻輳する地方は忽ち衰微の色を現は
すのみならず都て外來の客を相手に營業する旅店、骨董店の類は全國を通じて甚だしく困
難するは鏡に掛けて明なり民間の政客が平生常に民力休養の大切なるを説て地價修正地租
輕減等を主張しながら一方に於ては外人排斥の策に左袒して以て我國民の爲に前途最も有
望なる一大財源を失はんとするは更に譯の分らぬことなり或は事の裏面を視察すれば今の
厲行論者の十中八九は唯政府を窘しめんが爲めに一時の政略として無責任の大言を放つの
意味もあらんなれども他の内情を知らざる外國人の眼を以て見れば日本の與論は攘夷説に
化したりなど誤解することなきを期す可らず而して斯る間違の爲めに端なくも歐米人の猜
疑心を喚起し日本は尚ほ鎖國攘夷の國にして其内地を漫遊するは物騒なり危険なりとて次
第に渡來人の數を減ずるやうの事ありては日本國の名譽利害に關する由々しき大事件にし
て我輩の最も遺憾とする所なり左れば苟も我開國進取の大義を重んじ内に富實を謀りて外
に國光を發揚せんとする者は世上に喧しき排外孤立の陋論を擯け尚ほ其上にも百方手段を
盡して來遊の外客を優待し事に害なき限りは其便利愉快を謀りて以て渡來者の數を多くす
るの策を講ぜざる可らず我輩の呉々も勸告する所なり