「撰擧競爭」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「撰擧競爭」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

撰擧競爭

臨時總撰擧の期日は本日の官報欄内に見ゆる如くいよいよ三月一日と定まり各地の候補者

は既に競爭の運動に取掛りたる者も少なからざる由なれば是れより數十日の間は全國一般

に政熱の大流行を催ほすことゝ想像して間違なかる可し明治二十三年の總撰擧には候補者

の競爭隨分劇烈ならざりしに非ずと雖も兎に角に我國にて國會議員の撰擧は當年始めての

事なれば撰擧人も被撰人も自から事に慣れずして不案内の廉多く爲めに却て甚だしき不都

合の沙汰をも聞かずして已みたれども之に次ぎ第二回總撰擧の節には各派の政客何れも前

年の爭に經驗を得て大に運動の方法に熟練したることならん競爭は何處に於ても非常に劇

しくして隨て亂暴違法の所爲を働く者甚だ多く賄賂の授受、壯士の使用等は勿論、甚だし

きは火附け人殺の沙汰をさへ聞くに至り其失體實に名状す可らざりしは世人の今に記臆す

る所ならん扨て今年の臨時撰擧は即ち第三回目の撰擧にして是れまでの順序を以て押せば

候補者の競爭は益す激烈なる可き筈なるのみか昨年來自由黨と改進黨との間に軋轢を生じ

て兩黨の政客は今回必死を極めて相爭ふの覺悟なりと云へば若しも目下の成行に一任し置

かんには今後一二箇月の間に政治社會に如何なる大騒動を惹起すに至るやも知る可らず隨

分掛念の事共なり抑も撰擧政治の主眼とする所は人民多數の望に叶ひたる人を擧げて政治

に參與せしむるに外ならざれば撰擧の際に最も肝要なるは人民をして自由に其好む所の人

に投票せしむるの一事なり若しも撰擧者に此自由を與へざる位ならば始より撰擧投票など

云ふ面倒なる手續を爲して世間を騒がすに及ばず寧ろ一人或は二三人の意見にて適當と見

定めたる人を登用する方遙に便利にして且實際に不都合少なかる可し左れば彼の賄賂脅迫

等の手段に由て候補者が投票を得んとするは撰擧政治根本の趣旨に背くの所爲にして最も

愼まざる可らざること勿論なれども扨候補者の身と爲りて考ふれば其目的とする所は唯己

れ自から撰擧せられんことの一事に在りて此目的を達するには正々堂々たる演説文章など

を以て撰擧者を勸誘するよりも金力と腕力とを以てする方效驗の著しきのみならず假令ひ

其本心には斯る後暗き所行を快しとせざる者にても相手の競爭者が颯々と之を行ふて憚ら

ざるに此方のみ獨り德義に拘泥して公明正大以て競爭せんとするときは恰も身に寸鐵を帶

びずして持兇器の暴漢と鬪ふに均しく到底勝利の見込なきが故に良からぬ事とは知りなが

ら已むを得ず種々雜多の不正手段を行ふ者少なからず斯の如き次第なれば單に競爭者の德

義心に訴へて撰擧の弊習を除かんとするは到底言ふ可くして行ふ可らざるの空策たるを免

れず故に我輩は撰擧競爭者に向て反省を求ることを爲さず唯政府の筋にて撰擧規則を嚴重

に實行し聊かたりとも之に違犯する者をば容赦なく罰に處せんことを勸告する者なり近頃

撰擧規則厲行のことに付氣世間に彼れ是れ論議する者あれども元來この邊の取締を嚴にし

て不都合なからしむるは即ち政府の義務にして今更ら事新しく評判するにも及ばざる事な

り我輩は今回撰擧競爭の實况に注目して萬一再び前年の如き大失體を發見することもあら

んには政府當局者の不行屆を詰責する所あらんとする者なり