「名美にして實伴はず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「名美にして實伴はず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

總撰擧の期日も近づきたるに付ては各地ともにおひおひ競爭に忙はしきことならん扨政府の之に對する方針は如何と云ふに先頃地方長官警部長等を招集して何か訓示する所ありしよし其趣意は素より知るを得ざれども聞く所に據れば飽までも嚴正中立を守りて何れの黨派に對しても依怙贔屓の沙汰を謹しむ可しとの意味なりと云ふ誠に左もある可きことにして訓示の精神は我輩の毫も間然せざる所なれども實際に於て嚴正中立は果して字義の如くに行はる可きや否や頗る疑はしきが如し民黨の目的は只政府攻撃の一事にして殊に撰擧競爭の際には一時人氣を取るの方便として殊更らに反對の聲を高むるは申す迄もなく種種の手段を運らすことも亦少なからず投票を得るが爲めに金錢物品を贈るが如き法律の禁ずる所なれども從來の有樣にては公然これを行ふて憚からず凡そ全國の當撰者にして投票を得るが爲めに金を費さざるものは殆んど稀れなりと云ふ又彼の壯士を使用して撰擧人を脅迫し又は競爭者の投票を妨ぐるが如きは一般の慣習にして何人も怪しまざる所なれば今回の撰擧に於ても競爭の甚だしきと同時に是種の手段はますます行はるるものと覺悟せざる可らず政府は何れの黨派に對しても依怙贔屓の心なしと云ふと雖も斯る手段の行はるるを輕輕に看過するときは現行の法律は有れども無きに異ならずして行政の威信も立つ可らず斯くては嚴正中立も實際に行はれざることなれば此邊の取締に關しては必ず法律■(がんだれ+「萬」)行の手段を取りて一歩も假借せざることならん法律の■(がんだれ+「萬」)行素より至當の談にして我輩の異論なき所なれども抑も其法律なるものは元是れ一紙片の文字にして執行者の手を假りて始めて活用す可きのみ而して之を執行するは地方長官及び警部長の任なれども實際の局に當るものは郡長郡書記もしくは警部巡査の輩にして其地位も低く隨て心に餘裕なき者共なれば法律の運用ますます窮屈ならざるを得ず或は平時に於ける人民間の爭ならんには篤と雙方の事情を取調べて徐ろに判斷を下すことを得べしと雖も撰擧の爭は何分にも目下に迫りたる急事にして寸刻も猶豫するを得ず郡吏警吏の輩が即席に起りたる事件を即席に處置する其判斷に正鵠の的中を期するは本來無理の注文なる其上に前にも記すが如く民黨の輩は恰も政府を敵視し殊更らに聲を大にして攻撃の毒鋒を逞ふするが故に眼前に之を見聞する小官吏輩の身と爲りては恰も自身に攻撃せらるるが如き思を爲して中心自から激する所なきを得ず既に激怒する所あれば其怒氣の擧動に現はるるも止むを得ざる所にして假令ひ一方に於ては立派に嚴正中立を守りたる積りにても他の一方より見るときは依怙贔屓の跡を顯はして遂に非難を免れざるの結果に終るが如き始末はなきやと我輩の今より掛念する所なり

本來を云へば政府が既に嚴正中立と决心したる上は法律の執行に就ては之を地方官に一任して寛嚴自在に變通せしむるこそ便宜なれ撰擧の競爭も他の人事に異ならず各地に情况を異にして或は黨爭の非常に盛なる處もあれば或は全く靜なる處もあり又は同じ事にても黨派の中にて互に相爭ふものもあれば或は各派聯合して政府に反對するものもあり千差萬別事情の異なるに從て之に對するの手心も自から異ならざるを得ず其手心をば其地の地方官に一任して始めて法律も活用す可きなれども此事たる今の地方官には望む可らず其次第は前回の撰擧に時の政府の意を測量して頗る力を致したる輩は現政府に至り撰擧干渉云云の非難を蒙りて或は職を認められたるものさへなきに非ず狡兎死して良狗烹らる殷鑑遠からず前回の撰擧に在り政府のお爲めを思ふて却て後日の咎を受くるが如きは割に合はぬ始末なりとて心には愚策と知りながらも中央政府の訓旨を重んじて寸毫も加■(にすい+「咸」)せず命のままに之を實行すること先づ地方官一般の情態ならんなれば本來の手心は異ならざれども各地の事情おのおの異なるが故に其實際を見れば嚴なる可き處に寛にして寛なる可き處に嚴なる等、却て銘銘に手心を異にしたる如き奇觀を見ることならん法治一偏の政府に免る可らざるの事情なれども反對の一方より之を見るときは依怙贔屓の觀を呈して嚴重中立の精神に背くものと認めざるを得ず世間の非難を免るるは何れにしても困難なりと云ふ可し現政府の政略は單に其名を美にして實の之に伴はざるもの多し嚴正中立の覺悟の如きも亦その類ならんのみ