「孟買航路(昨日の續)」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「孟買航路(昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

孟買航路(昨日の續)

内國綿絲紡績聯合會社の結合はますます固くして同會社に於て輸入する孟買綿花は悉皆郵船會社に委托し一俵たりとも他の船舶に搭載せざることを約したる程の次第にして既に綿花の取引に從事する外國商會の如きも聯合に加盟したるもの少なからずと云へば我郵船會社の孟買航路は彼阿會社と名くる競爭の大敵あるにも拘はらず目下の處、繼續の見込は慥なれども扨會社の私を顧みて會計上の得失如何と云ふに十二ルーピーの運賃は止むを得ざるの事情に出でたるものにして固より至當の割合に非ず會社が船舶を使用するには積立金も爲さゞる可らず保険金も拂はざる可らず然るに十二ルーピーの運賃にては船舶保存費の見込なく唯僅に船員の給料及び石炭費を償ふに足るのみ表面より見れば毎回會社より現金を持出すまでには至らざれども其實は容易ならざる損失を被りつゝある者なり又彼のタヽ氏は他の船を借入れて使用することなれば一航海に少なくも一萬圓の損失は免る可らずと云ふ殊に綿花の季節は三四五六の四個月にして其季節の間は荷物の多きに反して其他の八個月間は乏しきを告るの常なれども契約に據れば毎三周間一回の航海は是非とも爲さゞる可らず計算上、割に合はざる談にして或はタヽ氏の如き該地の豪商にして幾百萬圓の身代ありと稱すれども斯る損失を冐しながら一個人の力を以て能く二年間の繼續に堪ゆ可きや否やの掛念さへもなきに非ず郵船會社に至りては事の始めは兎も角も今日は恰も國を代表して世界の表面に立つの姿を成したることなれば假令ひタヽ氏が中途にして手を引くやうのことあるも國の面目に對して一歩も退く可きに非ず約束の二年間は必ず航海を繼續して一般の希望を空ふすることは決してなかる可し同社とても株式組織の私立會社にして無盡藏の財源あるに非ず如何に國の爲とは云へ看す看す非常の損失を冐して幾多の株主の利害を犠牲に供するは到底叶はざることなれば運賃の割合なり其他の事情なり今日の儘にして變化なりに於ては滿二年の其後に至れば契約の繼續は到底覺束なきことならん心細き次第なりと云ふ可し顧みて彼阿會社の有樣を見れば日本に輸入する綿花は悉皆日本船に搭載するの契約成就して然かも其結合甚だ固きが故に彼會社にて斷行したる運賃の減額も實際の競爭の効なきのみか或は從來一手にて占有したる印度支那間の荷物も往々日本船の爲めに蠶食さるゝが如き姿なきにも非ざれども彼は名に負ふ世界の大會社にして資本も豐に船舶も乏しからず現に伊太利の郵船會社、墺地利のロイド會社の如き同會社より年々若干の補助金を受けて兩會社の運賃は決して彼阿の定額より減ぜざるの約束を結びたる程にして全く其麾下に屬するの有樣なりと云ふ其勢力以て想ひ見る可し即ち此會社の眼を以て日本の郵船會社を見れば小兒に異ならず小癪の小兒打て倒す可しとて目下の損失を顧みず大に運賃を減じて最後の勝利を期するは正に彼の決心なるが如し又我孟買航路の開始に就て彼地の有樣を聞くに印度人の如き世界に日本國あるを知らざるものさへ多く况して郵船會社の船の如きは何國の船なるや知らざる程の次第なれば兎に角に目下に運賃の廉なるを利して荷物を托すれども其實は此新航路の永續す可きや否やを疑ひ輕卒に之に依頼して彼阿會社の機嫌を損するときは他日の後難恐る可しとて日本船に荷物を積むには用心に用心して事を秘密にする者多しと云ふ事態既に斯くの如し二個年の後契約滿期の曉に至らば果して如何なる可きや或は其年間に日本印度の貿易繁昌を致して綿花の外に荷物の增加を見ることもあらんには郵船會社は他の依頼を待たずして自から航海を繼續す可し甚だ妙なれども斯る好都合は容易に望む可きに非ず即ち滿期の後に至りても其航海を繼續せしめんには綿絲紡績の聯合會社が既定の運賃を增し計算上、割に合ふまでに爲すの一事にして或は十五ルーピー位の運賃ならんには郵船會社も一方には自家の體面もあれば喜んで繼續の計に出づることならんかなれども聯合の當業者に果して斯くまでの決心ありや否や若しも其決心なきに於ては孟買の航路は二年を期して止むるの外なかる可し果して然るときには其航路は再び彼阿會社の専有に歸して運賃の如きは十七ルーピーの舊に復するのみか競爭の反動として二十ルーピーにも飛揚り幾多の不便を蒙るや疑ふ可らず即ち彼會社の所期を實にするものにして明白の成行なれば當業者たるものは自家の利害の爲めに謀りても大に奮發して航路の繼續に力を致さんこと我輩の希望に堪へざる所なり然りと雖も全體の上より見るときは事の始めは兎も角も世界の航路に日本船と外國船との競爭を演ずるに至りし以上は最早や一會社一個人の私事として見る可らず即ち其成敗は國の航海權の消長に關する大事なれば國民たるものは單に事の當局者に一任して晏然坐視す可きの時に非ず或は特別に國庫の金を支給して其航海を補助するなり又は昨年議會に提出されたる航海奨勵法の如き其案に於ては既に政府の保護を受くる會社は例外に屬するの規定なれども本年は其規定を改めて更に提出し以て孟買航路の如きにも適用せしむることゝなすなり何れにしても國の力を以て其航路を保護するこそ經世の義務なる可し斯くの如くなるときは一方には航路擴張の目的を達すると同時に一方には郵船會社も綿花輸入の運賃を減ずることを得て紡績業の發達を促すの利益ある可し航路擴張は國民年來の希望に非ずや既に其端を開きたるの今日、一歩も退かしむ可らず我輩は我國民が目下の成行を等閑に付せず必ずや大に盡す所ある可きを信じて疑はざるものなり