「水害補助費の支出」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「水害補助費の支出」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

水害補助費の支出

政府は和歌山縣外五縣の水害補助費として國庫剰餘金より前後凡そ六百萬圓足らずの金額を支出したり剰餘金の支出に就ては例の如く違憲云々の反對説もある樣子なれども其説は姑く擱き我輩の敢て聞かんとする所のものは此補助の金額は果して水害の實際に照らして適當なるや否やの事實に在り抑も昨年夏秋の候に際して右の六縣下に洪水海嘯の災ありたるは事實にして之が爲めに堤防道路等の破壊したるも事實なり其損害果して非常にして地方人民の力にては實際復舊の工事に堪へざるの事情ありとせんか其儘に捨置て又もや再度の天災もあらんにはますます損害を大にして人民の難渋は申すまでもなく結局、國の損失に歸する次第なれば國庫の金を出して其修築を補助するは素より至當の處置にして我輩に於ても異議なき所なれども從來地方の復舊工事に就ては往々にして奇怪の沙汰を耳にすること少なからず本來國庫金の補助は人民の力に堪へざる工事の費用を助けて其損害を舊に復せしむるまでの爲めに外ならざるに然るに實際に於ては單に復舊のみに止まらず其損害は全く復して半點の痕迹を留めざる尚ほ其上に銘々に利する所少なからずして災後の人民遽に有福を感ずるが如き奇談もなきに非ず即ち岐阜震災後の始末の如き其一例として見る可き者なり天災の大にして國損に歸す可きものは國費を支出して其復舊を助ること素より至當なれども更に人民の一身上より見るときは天變地異は不慮の災厄にして時としては之が爲めに財産を損するのみならず或は生命さへも失ふの塲合なきに非ず銘々の不幸にして實は訴ふるに處なき者なれども幸にも一般社會は他の不幸を等閑視せずして之を助くるに怠らず即ち同胞相憐の情にして彼の國庫金の如き取りも直さず社會の同胞が銘々に醵出したる其錢を積みて救助の用に供するものなれば之を受る者に於ては兎に角に目下の不幸を免るれば難有仕合なりとして深く謹む所ある可き筈なるに恰も自家の不幸を奇貨として自から利せんとするが如きは同胞の情に對して相済まざる次第なりと云ふ可し左れば一般人民の信用を負ふて財政の局に當る者は國庫の金を支出するに就て此邊の注意を密にす可きこと勿論なれども今回の支出に就て果して斯る不都合を認めざるや否や我輩の聞かんと欲する所なり風聞の傳ふる所に據れば今度の補助を得たる或地方の如きは復舊の工費と稱して最初は三十萬圓程の請求を爲したるに實地取調の上、其三十分の一即ち三萬圓以内にて充分なるの事實を發見し人民も之にて承知したりと云ふ三十萬圓を三萬圓に減じて差支なきものならば三千圓にてもまたは三百圓にても差支なきのみか或は全く補助せずして可なりしやも知る可らず恰も商賣の掛引と同樣にして酷に之を評すれば俗に云ふペテン師の掛直と云ふも可なり請求者の不埒は申すまでもなく之に應ずる責任者の國庫金を支出するの處置としては見る可らざるが如し尚ほ一歩を進めて更に甚だしき事實を擧ぐれば人民が私に開きたる海濱新開地の堤防を修築するに護岸堤防の名義を以て補助費を給したるの例さへもなきに非ずと云ふ世人の知る如く中國もしくは九州の地方にては海岸遠淺の塲所を石垣にて圍ひ込みたる新開地少なからず其初め人民が此地を開くに當りての計畫は全く自利の一點にして新開の許可を得れば鍬下年期は若干年にして熟田と爲すときは若干の収益ある可しとの計算を立ていよいよ資本を下して着手することなれども其資本とは即ち風浪を防ぐ爲め石垣を築くの費用にして資本を惜まずして堤防を堅牢にするときは永年の間、不時の天災を免るゝことを得べしと雖も斯くては収支相償はざるが故に利益相應の資本を下すことにして其堤防の風浪に堪へざるは本來の計畫に於て然るものなり即ち最初より私利一偏にして護岸などの意味は萬々あることなし昨年の海嘯にて此種の新開地に害を蒙りたる處多きよしなれども其損害は設計者の初めより期したるものにして企業の失敗に外ならざれば何人に對しても補助を求むるの權利はなき筈なるに然るに斯る損害に護岸堤防の名義を濫用して國庫よりの支出を受けたるものありと云ふ果して然らば海岸の地に製造所を建築して風浪の爲めに損害されたるが如きも全く同一の塲合なれば等しく補助を與へざるを得ず不都合千萬なりと云ふ可し當局者は國庫金を支出するに當りて斯る事實を認めざるや否や認めずして支出したりと云はゞ不明の譏を免る可らず若しも認めながら支出したりとならば之を目して國庫金を濫出したるものと云はざるを得ず我輩の敢て聞かんと欲する所なり(以下次號)