「銀の前途」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「銀の前途」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

二十年前に金一弗の價を保ちたる銀圓が今は僅に四十七八仙の相場にて賣買せらるゝに至り銀の前後は一見絶望の觀なきに非ざれども又退て考ふれば今日の此暴落は却て歐米各國をして金單本位の不利を悟らしめ彼の萬國兩貨制の實行に依て大に銀貨を回復するの時機を遼ならしむるの効ある可しとは過日の時事新報にも述べたる所なるが近着の歐米諸新聞紙に就て彼の經濟社會の状況を窺ふに益す我輩の立言の誤らざるを證するものゝごとし即ち第一に獨逸帝國政府は去二月下旬に銀問題の調査委員を設け大藏大臣ポサドースキイ氏を以て委員長に任じたり同氏は委員會に隣席して議長の椅子に就くに當り「獨逸帝國政府は目下自國に金本位を採用しつゝあるにも拘はらず近來銀の非常に下落するを見て掛念に堪へず今日は正に銀問題に就て最も充分なる調査を爲さゞる可らざるの時なるを認む」云々の演説を爲したりと云へば同政府が金單本位に滿足せずして銀價の回復を希望するは喋々を俟たずして明なり又佛蘭西にては未だ公然委員の設あらざれども國民一般に金價騰貴、銀價下落の爲めには非常の損害を蒙り衆心一樣に兩貨制の實行を望むの有樣にして現に同國にて最も有力なる「佛蘭西農會」の如きは過般大會を開て銀問題を議し銀價回復の急要なる旨を議決し尚ほ又羅典同盟(即ち佛蘭西、伊太利、瑞西、白耳義諸國の同盟)と北米合衆國と連合して兩貨制を實行すれば以て全世界の金銀相場を一定するを得べしとの事を議決したりと云ふ其他歐洲諸國は何れも金銀價の變動に由て多少の損失を蒙らざる者なく就中、農民勞働者の類は最も直接に困難を感ずるものなれば各國共に兩貨制に對しては固より異存ある可き筈なけれども唯如何にせん今日までは經濟社會の大王たる英國が頑然金本位を守りて動かざるを以て他の國々は皆これに抵抗するの勇氣なく心ならずも籍を金國の中に掲げて竊に英の鼻息を窺ひ居たることなるに然るに近頃に至り形勢頓に一變して金の本城たる英國内に有力なる兩貨制の主張者を現出し倫敦は端なくも金銀論の大戰場に化し去らんとするの徴あるこそ由々しき事變なれ元來英國にて有名なる經濟學者は盡く兩貨制論者なりと云はるゝ程にて學問社會には兩貨制論の勢頗る盛なりと雖も實際に商賣金融の全權を握る富豪者輩は大概皆通貨の騰貴に由て直接の利益を享る者共なれば兔角に金本位を喜ぶの意あるにぞ政治家は素より此種族の歡心を得んことを勉めて他を思ふに遑あらず保守黨自由黨の區別なく苟も銀價維持の説を唱ふる者甚だ稀なりしに近來銀の下落如何にも激烈にして英國に負債ある銀貨國は元金の償却は勿論、利子の支拂にさへ差支へて殆んど破産の境に迫りたるもの多く殊に印度の如きは數年來困難に困難を重ねて最早如何ともす可らざるの慘状に陷りたれば流石英國の富豪者も漸く實際の事情を悟りて斯くては却て結局自家の迷惑と爲ることある可しとて茲に始めて銀の暴落を恐るゝの念を起したる者少なからず而して又海外貿易に從事する商人は爲替相場下落の爲めに東洋及び南米の諸銀國に向て物品輸出の路を失ひ手を束ねて空しく銀の騰貴を待つ者比々皆然らざるはなし過日倫敦商法會議所がブラツセル府の萬國貨幣會議を再びする爲め其準備を急ぐ可しとて政府に建議したるが如き(三月十六日時事新報)は即ち英國經濟社會の輿論を代表したるものにして決して輕々に看過す可らざる事件なり又實業者の中に漸く金單本位を厭ふの情を現はしたる其際に保守黨の政治家は好機會失ふ可らずとて大に兩貨制論を唱へて政府の印度政策を攻撃し自由黨の金銀問題に冷淡なるを責めて遂には此問題に由て現内閣を倒さんとまでの決心を定めたるものゝ如しと云ふ左れば通貨本位の選擇は是れより英國政界の大問題と爲り國會議場の討論に金銀の火花を散すは期して待つ可きなり若しも英國にして果して兩貨制を承諾するときは合衆國は無論同意を表するに相違なかる可し何となれば合衆國の金貨論者の過般は絶對的に飽くまでも金單本位を良しとする者に非ずして唯米國一箇の力にて兩貨制を實行するの得策ならざるを信ずるまでに止まればなり英米兩國にして既に兩本位を採用する上は縱令ひ他の國々の協力を請はざるも世界の金銀價を支配するは難きに非ず況んや前記の如く獨逸も佛蘭西も皆共に兩貨制を採用するの傾あるに於てをや我輩が今日銀價暴落の際に當りて銀の前途甚だ多望なりと云ふは決して空妄の想像に非ざるなり