「千嶋の漁獵」

last updated: 2021-08-22

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時事新報に掲載された「千嶋の漁獵」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

獵虎膃肭を始めとして世界に屈指の漁場地たる我千嶋群嶋は地位の僻遠なる氣候の極寒なるが爲めに未だ開拓に着手したる者もなく空しく外國密漁船の出沒を傍觀して天賦の富源を〓棄するが如きは誠に憎む可き限りと云ふ可し政府にても夙に爰に留意して密漁取締の爲め臨時軍艦を派遣することなれども實際何の效なきも道理なれ凡そ海上を股にかけて大膽にも密獵を企る者は剽悍粗暴俗に所謂命知らずの輩のみにして武器兵具の用意さへ拔目なければ一軍艦に逢へばとて容易に驚くものにあらずスハと云はゞ打て出でん勢にして若しも強ひて捕縛せんとすれば徒に國際の葛藤を起すに過ぎず且つ從來の弊として恰も密獵を默許し彼等が獲得したる其幾分を收めて自から甘んじたる樣の慣例故實もあることなれば外船の跋扈亦敢て無理ならざる邊もありて先づ以て手の付けられぬ有樣なるは實に遺憾と云はざるを得ず即ち世に密漁船取締論の由て起る所以にして我輩も亦かの亂用を認むる者なれども既往は云ふも益なきこととして擱き畢竟密漁船が斯く無遠慮に侵入するものは我國にて樺太と交換以來二十餘年の久しき此の好漁場を無頓着に付し去り天然の儘に放棄して開拓の實を擧げざるが故にして假令ひ我版圖内にもせよ他人の來りて指を染るは情勢の免れざる所なり試に地を替へて考ふれば我國人とても他國に斯る場所あれば或は之に侵入するの野心なきを保す可らざるが如し故に我輩の所見を以てすれば取締軍艦の派遣、要は即ち要なり亦苟も一國として版圖侵入を不問に付す可らざるや申す迄もなけれども唯軍艦の威力に依賴して猥に取締を實行せんよりは先づ第一に千嶋地方の漁業を奬勵し之を發達進歩せしめて漁民自から他の密漁を監視し而して其力及ばざるものあるときは乃ち軍艦を煩はすこそ今日に處するの良法にして亦我富源を空ふせざるの得策ならんと信ずる者なり然るに千嶋の今に至るまで依然として無人の鄕の如く殆んど漁撈業の見るに足るものなきは何故なるや金なきが故かと云ふに必ずしも然らずして全く我政府及び人民の注意足らざるの過に歸せざるを得ず或は千嶋全體の拓植を一時に擧行せんとするが如きは容易ならざる可しと雖も單に其手始として差向きの急務なる漁業の奬勵に就ては之を成さんこと敢て甚だ難きにあらず其實手段の一二を語らんに元來無人鄕の常として瘴氣妖異動もすれば害を人身に及ぼす上に北國極寒の群嶋なれば棲息の困難なるは申す迄もなく利益の爲に髙眼を忘るゝ者に非ざるよりは決して着手を強ゆ可らず左ればこそ時に漁撈者の事を試むる者あれども永く滯留して充分の收穫を見んとすれば水夫等の中に苦情を唱ふる者多くして其本望を達せしめず即ち漁者は利を思ひ水夫は生命を思ふよりして雙方の熟和を缺き隨て遂に漁業の發達せざる者なりと云へば此缺點を救正するこそ最も急要にして其法唯漁者をして水夫を兼ぬるを得せしむるに外なきのみ從來北海道の漁業たるや率ね磯邊に寄來る魚介を拾ふ位のものにして規模至て小なるが故に千嶋地方等の遠征に得事せんとすれば殆んど物の用を爲す者少なく水夫は水夫、漁者は漁者にして爲めに前記の遺憾を認むるものなりとぞ左れば政府に於て之に多少の便宜を與へたらば仕掛を大にして着々歩を進ること左までの難事に非ざる可し又政府は先年帝國水産會社の爲めに千嶋地方に於ける漁業の特權を與へ漁業區を三分して年々一區づゝを巡〓し他は一切漁民の入るを許さゞるが如き寧ろ全體の進歩を妨るものなれば此等は奬勵法の實施と共に解除して一般を誘導するこそ本意ならん乎要するに今日千嶋の爲めに策を建つる者多くは一時に大計畫を實施せんとして却て着手の糧を得ざるを憎み或は莫然版圖論を主張して密漁取締の爲めに軍艦の派遣を繁多ならしめんと迫り同嶋の開拓及び警衞に就て常に順序を離るゝが如きは我輩の竊に感服せざる所唯小より始めて而して遂に實地に就かんことを祈るのみ