「國民未だ撥亂の思想を脱せず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「國民未だ撥亂の思想を脱せず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國民未だ撥亂の思想を脱せず

維新革命の變亂以來殆んど三十年、時に干〓を働かしたることなきに非ざれども孰れも邊隅の小亂か若しくは百姓一揆の類にして討〓、踵を廻らざる然かも其騷動は革命の餘症とも見る可き小變にして特發のものに非ず一國の政權は全く中央政府に歸して國中亦波瀾なく〓會の秩序、人民の安堵ただますます〓固を加えるのみにして絶えて危難の恐あることなし即ち目下の〓態にして今の日本は〓に〓に撥亂創業の時代を經〓し去りて專ら守成反正の事に力を用い可き時なるに然るに國民一般の氣風を見れば未だ撥亂の思想を脱せずして反正の實に乏しきものゝ如し盖し撥亂の世に於ては人心に鼓動するに極端〓激の主義を以てして敵〓の心を〓さしむるも一時の方便をして止むを得ざるのみならず一般の人心も〓會の形勢に〓れて自から殺伐に〓らざるを得ず即ち德川の末より維新の〓に際して全國の人心を風靡したるものは勤王の二字なれども其勤王とは如何なる意味なるやと云うに王室の式微を〓嘆する餘り身を以て之に殉へ以て王敵と認めたる幕府を倒さんとすることにして其趣は承久元弘の事〓に異ならず左れば人々の心に期する所は古代の忠臣義士の行爲にして其忠義とは他を倒すか自から倒るゝか到底兩立せざる急塲に際し一身を處する心掛に外ならず即ち其心掛は尋常忠義の意義のみに止まらず之に勇烈の二字を加え忠勇義烈とも稱す可きものにして一般の氣風自から苛烈ならざるを得ず彼の家を燒き人を殺したる細事より德川の政府を倒すに至りたるまで孰れも此氣風の然らしめたる所にして撥亂の事業を成すには與りて大に力ありたることなれども〓に亂を撥いて正に反り專ら守成の一偏を勉む可き今日の時〓に際しては其氣風も亦自から變化の必要を見る可し盖し忠と云い義と云い人生日常の心得に於て一日も忘る可からざるものなりと雖も極端の塲合を意味する忠勇義烈と云うが如きに至りては何か非常の事變に當り身を處する覺悟にして〓生處世の行爲として見る可きものに非ず之を喩ば正宗の寶刀の如し三尺の氷刃、鋭利兜を斷つ可しと雖も之を用いる自から其時あり若しも濫に用いるときは寶刀の利を見ずして只その害を見る可きのみ左れば極端〓激の思想も時に取ては自から必要なれども守成の時〓と爲りては自然に之を導て常に復せしむるの工風こそ肝要なるに今日の實際を見れば一般の氣風と云い又その氣風を養成する學問教育の方向と云い寧ろ極端の思想を奨勵鼓舞する事實多し都は經世家の〓々看〓すること能わざる所なる可し例えば今の〓會に喋々その功績を稱賛して或は紀念の〓碑を建立して欽慕の〓を寄せ或は〓位の〓を榮として大に〓祭を催おすが如き其本人の履歴を問えば多くは維新の前後撥亂の時代に非命の死を遂げたる人物なるが如し我輩は敢て其人物の如何を論ずるに非ず又其事の當不當を説くものに非ざれども兎に角に〓會一般の氣風未だ撥亂の思想を脱せずして非常極端の行爲を喜ぶもの多きを見るに足る可し又〓育學問の方向に至りては經世家の最も〓意す可き所なれども今の小學校等にて生徒に授くる修身書の類を見るに其記す所の事柄は多くは世に忠臣義士と稱せらる非常極端の事例にして居家處世の要として學ぶ可きものは甚だ少なきが如し兒童の〓育に斯る極端主義を旨として却て日常生活の要務に疎なるは我輩の解せざる所なり又學者の著わしたる歴史の如きも修身書と同樣の主義にして感服せざるもの少なからず彼の歴史家の本〓と仰ぐ所の日本史外史の類の如きは著者本來の〓〓〓に自から異なる所あり即ち時の形勢に〓する所ありて大に天下の人心を激勵する意味を寓したるものなるが故に其筆法の苛烈にして主義の極端を免れざるも自から其處なれども今日の時世に斯る筆法主義は何の必要ありや前に云へる如く勤王の説は王室式微の時に行わるゝ常にして承久元弘の亂世に不忠不義の徒多くして事態容易ならざる塲合ならんには忠臣義士の養成も必要ならんなれども明治太〓の時世に斯る不〓の事なきは三尺の童子と雖も解するに難からざるべし畢竟かゝる氣風の行わるるは國民一般に未だ撥亂の思想を脱せざるが爲めに外ならざれば反正守成の今日に際し經世家たるものは大に心を用いて其気風を一變せしむる〓意肝要なるべし