「僧侶の兵役免除に就て」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「僧侶の兵役免除に就て」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我輩が過日の紙上に掲げたる僧侶の徴兵免役論に就き左の如き一書を寄せたるものあり

時事新報社説欄内に僧侶兵役免除の御議論を掲げられ一讀感服仕候御説の通り僅僅五六萬の僧侶中より若干の兵士を取るも取らざるも一國の兵力には何程の影響も及ぼさざることなれども更に一考すれば一般の人民中には兎角兵役を嫌ふもの多く從來種種の手段を運らして成る可く徴兵の■(てへん+「檢」の右側)査を免るることを謀り甚だしきは法律に觸るるものさへあるは實際の事實に御座候左れば貴説の如く僧侶の兵役を免除するときは或は一時徴兵逃れの爲めに僧侶の籍に入るもの非常に多きに至るやも量り難し斯くては一國の兵力上にも關係する次第なれば此邊の取締は如何可致哉更に御示教被下度候云云

世間或は右の寄書家と同樣の感を懷くものもあらんなれば之に對して聊か所見を陳せんに我輩は本來これが爲めに取締の法を設くるの必要を見ざるものなり抑も宗教の事は之を其自由に一任して政府の法律を以て干渉す可きものに非ず我輩は今の各宗の宗規に如何なる條目あるや知らざれども若しも朝に佛門に入りて夕に之を脱すること書生の下宿屋に於けるが如きものもあれば是れ道を信じ法を修むるに非ずして之を弄ぶものなり况んや兵役を逃るるの目的を以て假りに身を托するの輩に於てをや國法佛法を共に無するものにして各宗の宗規に於ても嚴重に戒しむる所なる可し若しも然らずして濫に其入門を許さんには國法の制裁は兎も角も宗門の紀綱は毫も立たずして遂には佛法衰微の結果を招かざるを得ず呉れ呉れも注意す可き所なり或は佛門の宗規は世俗の法律と異にして斯る注意に乏しきが故に其邊の取締は自から不充分なるの掛念もあらんなれども既に一方に於て宗教に重きを置き兵役免除の特典を與ふるときは宗教家たるものも亦自から重んじて之に對して其宗規を嚴密ならしむ可きは至當の處置にして當局の僧侶に於ても必ず茲に見る所ありて宗規を嚴にすることならんなれば我輩は其自由に一任して宗規の外に特に取締の法を設けて干渉することを欲せざるものなり斯くて佛門の内は一切宗規の管轄に歸せしめて毫も干渉せずと雖も一たび其門を出づるときは即ち普通の人民にして國法に規定したる義務は免れしむ可らず左れば若しも徴兵を逃るるの目的を以て身を佛門に寄するものあるも一旦僧籍を脱して還俗するときは彼の學術修業の爲め外國に寄留する者が歸朝の曉には抽籤の法に依らずして徴集すると同樣に處分す可きのみなれば一時僧籍を利用して兵役を免るるの目的を達することは實際に難かる可し或は避役の目的を以てして終身僧侶たるものあらば宗規と國法とは之を如何に處分す可きやとの説もあらんかなれども既に其門に入りて其戒を守り僧侶たるの資格を失はざるものは是れぞ純然たる清僧にして佛門の爲めには寧ろ喜ぶ可きのみ最初の目的の如きは問ふに及ばざることなる可し或は寄書家の説の如きは此塲合を指すものにして斯くの如くなるときは兵役を免るるが爲めに僧侶たらんとするもの續續出で來りて爲めに一國の兵力上に影響を及ぼす可しとの掛念ならんなれども凡そ佛門に入りて終身これに從事せんとするには其决心たる容易ならずして嚴重なる宗規の下に勤學修業の功を積み以て其身を法の犧牲に供するは兵役の苦痛を免れんとするが如き軟弱輩の决して堪ゆる所に非ず斯くの如き輩は假令ひ之を促すも自から近かざること敢て保證する所なり或は若しも之が爲めに佛門の繁昌を致して國中に清僧の増加を見ることもあらば却て喜ぶ可き次第にして决して憂ふるに足らず我輩の寧ろ希望する所なれども事の實際に於ては尋常普通の人に出家の决心は至難なるのみならず寺院僧侶の數とても自から限りありて容易に他の濫入を許さざることなれば僧侶の兵役を免除したるが爲めに遽に其數を増して兵力上に影響するが如き掛念は萬萬ある可らず我輩の慥に保證する所なし然りと雖も若し萬一にも僧侶の中に無恥法外の輩を生じて其特典を利し竊に他の破廉恥の徒と通じて佛門を以て國民の義務たる兵役を忌避するの媒介たらしめんと企つることもあらんか斯くの如きは既に宗規の外に逸したるものにして法外の輩にこそあれば國法を以て用捨なく罰す可きのみ