「ペストの豫防に就て」
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時事新報に掲載された「ペストの豫防に就て」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
ペストの豫防に就て
香港に於けるペストの流行は一時やや下火と爲りたるやの聞えもあしりが是れは支那人が兎角病を隱蔽するよりして事の眞相を悉くすること能はず報告の責を得ざりしものにして近着の報道によればますます猖獗の勢を逞ふするが如し容易ならざる次第にして我國の如きは益益戒心して防禦の手段を盡さざるを得ず醫者の説を聞くにペスト病毒の潛伏期は凡そ八日にして其期限を過ぎて發せざるときは最早や感染の患なき者として安心するも可なれども是れは人體に於ける塲合にして其病毒が物に寄生するの塲合は然らず例へば石炭材木又は穀類等の如く乾燥したる物質なれば病毒を培養する養分に乏しきが故に寄生の期も長からずと雖も綿花獸毛などには其期限割合に長く殊に襤褸の類に至りては恰も病毒を培養するに適して一たび傳はるときは之を去ること容易ならずと云ふ今香港の流行地より我國までは凡そ十日間の航程にして其間の航海中に病を發せざるときは船客乘組員の如きは先づ無難と認めて差支なけれども同地にて積入れ又は同地を經過して來りたる荷物は甚だ劍呑にして何れも有毒の物と見做して消毒の法を施さざるを得ず消毒の法にも種種の工風あれども最も有效なるは蒸汽機關を以て病毒を蒸殺するの方法にして此法に從ひ從前の機關を用ひんとすれば僅に三四俵の綿花を消毒するに凡そ一時間を費す可しと云ふ其手數も容易ならざるのみならず石炭の入費等も夥しきことなれども消毒の法を實際に有效ならしめんとするには綿花は申す迄もなく苟しくも流行地を經過し來る物品に對しては一一これを施さざる可らず現に今日印度地方より我國に輸入する綿花は非常の額にして一一これを消毒するは容易ならざる次第にして或は綿花の生産地又は其輸出港にまでも病毒の蔓延するが如き勢に迫りたらんには一時その輸入を禁ずるの必要をみることある可し商賣上の大事變なれば其筋の商人は今より此邊に注意して無益にあらざる可し扨今日に於ては豫防の工風を大切にす可きこと勿論なれども若し萬一にも防禦の手段を盡したる其甲斐もなく病毒の侵入を蒙るに至らば如何す可きや彼の病毒は單に物に依りて傳はるものか又は空氣よりも傳はるものか醫學社會にも定説なきよしなれども假りに空氣よりも傳はるものとするときは其危險云はん方なく既に一人の患者を生ずれば日本國中流行を免れざるものと覺悟せざる可らず殊に東京の如く人口稠密にして空氣の清潔ならざる塲所は最も病毒を傳へ易くして一層危險なるが故に若しも府下近傍に流行の萌を見るの塲合に至りて其危險を避けんとするものは他に遁るるの外に工風ある可らず一個人とすれば其事も容易にして安全の計なれども斯る塲合に及んで我輩の竊に掛念し奉るは帝室の御安否なりコレラ病の如きは嚴に交通を遮斷して清潔攝生の法を守れば深く怖るるに足らずと雖もペストの病毒にして果して空氣に傳はるものとすれば其傳染は貴賤高下を選む可らず既に昔年歐洲にて流行の時は西班牙の王室を犯したることさへありと云へり九重雲深くして宮門堅く鎖すと雖も空氣の流通は防ぐに術なし誠に掛念に堪へざる次第なれば其塲合には恐れ多くも玉輦を他に移させらるるこそ萬全の御工風なる可し東京近傍なれば差當り箱根の離宮なれども箱根邊にて尚ほ御不安心とあれば北海道など適當なる可きか北海道には離宮の計畫のみにして未だ其設なきが故に此際至急に着手せらるること必要なれども御移轉の方角は自から時の季侯に依て變せざるを得ず秋涼の節に北海道の臨幸を勸め奉る可きに非ざれば何月の頃には何何の方角と豫め塲所を相して離宮の設なき地方には速に建築の用意をも爲さざる可らず我輩は事の當局者が其道の醫者學者等と協議して其邊の計畫に取掛るも决して太早計に非ざるを信ずるものなり