「私艦」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「私艦」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

とは國民私有の船舶にして戰時に政府よりレタ オヴ マークと名くる免許状を受け軍艦と同樣の働を爲すものなり其目的とする所は專ら敵國の商船を捕獲して商賣上の妨害を加ふるに在るものの如し私艦を使用するの習慣は常備海軍制の未だ起らざる昔より存在し戰時には極めて便利なる組織なりとて各國の大に珍重したる所にして殊に平時海軍の備なき國に於ては最も偉大の効を奏したるの例多し然れども一得一失は數の免かれざる所にして凡そ私艦を編制する者は大概皆自家一身の利益を目的とする者共なれば其乘組人は何れも法律に由て殺人奪掠等の犯罪を公然許可せられたることと心得、往往言語に絶する亂暴狼藉を働て國家に後害を殘すこと少なからず左れば斯る弊習を■(にすい+「咸」)ぜんが爲めに政府に於ては私艦編制者より若干の保證金を取立て以て乘組員の行状を受合はしむるの例あり又米國などにては私艦は漫に敵國商船の貨物を沒收して自家の有と爲すこと能はず唯一旦敵に捕獲せられたる自國の物品を取返したる時に若干の報酬を得るの權あるのみ云云の判决を下したることあり然りと雖も私艦に附屬する種種の弊害は到底法律を以て豫防す可らざると又歐洲各國にて海軍組織の次第に發達整頓して私艦の効能復た昔日の如く著大ならざるとの故を以て千八百五十六年巴里に於てクライミヤ戰爭の平和條約成ると同時に該條約の附文として歐洲諸國相共同して一の宣言書を作り「私艦は之を廢止し自今再び使用せざる可し」との事を約束したり始め此宣言書に調印したるは英佛露等の諸國にして其後廣く同意者を求めたるに陸續加名調印する者あり今は則ち北米合衆國、西班牙、墨西哥の三國を除くの外、世界の文明國は悉皆巴里宣言書の調印者と爲れり現に日本の如きも亦これに調印したる一國なり右の次第なるを以て今日文明國の戰には私艦は一切用ふ可らざるが如くなれども然れども元來巴里の宣言書は純然たる相互的の條約にして調印國と調印國との間に限りて効力あるのみ若しも交戰國の一方が調印國にして他の一方が未た調印せざる國なれば雙方孰れも宣言書の趣旨に從ふの義務なく勝手次第に私艦を使用するの權あること勿論なり(此點に就ては公法學者の説く所、悉皆同一樣なり)左れば此度び日清の戰爭に私艦を使用するの可否如何と云ふに日本は前記の如く巴里宣言書に調印したれども敵國たる支那は未だ之に調印せざるものなれば我國が私艦を編制して支那船を捕獲し彼れの商賣を妨ぐるに於て聊か不都合ある可らず然るに世間往往巴里宣言書の性質を誤解し日本は既に之に調印したるを以て今回の戰にも私艦を使用することは無論許されざる所なりと妄信する者なきに非ざれば茲に事實を明記して以て世人の疑惑を解くのみ