「馬匹の徴發」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「馬匹の徴發」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

馬匹の徴發

戰時に當り所要の軍需を人民より徴發するは法律の定むる所にして今回の事件に付ては素より之を行ふ可き中にも馬匹徴發の如きは最も急を要するの塲合ある可し軍用に供する馬匹は乘馬、駄馬、駕馬の三種類にして駄馬と駕馬との二種は地方の農家又は馬車會社等に求めて徴發容易なれども乘馬に至りては各地方共に飼養者の少なきが爲め之を徴發するに最も便利なるは東京を第一として其他都市の地に限ることなる可し扨徴發物に對しては代價を賠償するの成規ある其上に成る可く所有者に迷惑を掛けざるの精神なるが故にいよいよ實行の塲合に臨みても私有の良馬愛馬を取るは氣の毒なりなどの遠慮よりして先づ價の廉なるものよりするの事情もあらんかなれども價の廉なるものは隨て性質も劣ることなれば實際軍用に供するには價の如何を問はず優等の逸物を選むこそ肝要なれ或は其性質を選んで優物のみを取るときは賠償の金額に關係あるに似たれども銘々最愛の子孫さへも其愛を割て從軍せしむるの今日に當り誰れか愛馬を愛んで價を云々するものある可きや苟も軍事の必要とあれば無代價にても苦しからず喜んで徴發の應ず可し國中一般の人情なれば賠償の金額に付き供給者と熟議云々の如きは一切無用として單に評價委員の評定に一任し原價の如何に拘はらず印しばかりの價を命じて颯々と徴發するも決して苦情はある可らず又駕馬の如きも東京府下には馬車會社の類を外にして銘々に自用の馬車を所持するもの少なからず一臺の馬車を具ふる家には二三頭の馬を飼養するの常にして是種の駕馬は彼の鐵道馬車などの馬に比して其優劣同日の談に非ず軍用に適當のものにこそあれば是れ又乘馬と共に徴發して用に供す可し東京府下のみにても少なからざる馬匹を得ること甚だ容易なる可し而して更に念を入れて供給者の事情は如何と云ふに乘馬もしくは馬車を所有するが如き者は何れも上等社會の人々にして悉皆徴發に應じたりとて毫も苦痛を感ずるに非ず只日常の用事に聊か不便なるのみ是れもいよいよ不便とあれば其人々の資力を以て更に馬を買入るゝも易し或は車馬に換ふるに人力車を以てするも宜し決して苦情などのある可き筈なければいよいよ必要の塲合には右の方法に據て遠慮なく實行せんこと我輩の敢て當局者に希望する所なり