「 清國は遽に和議を請はざる可し 」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「 清國は遽に和議を請はざる可し 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 清國は遽に和議を請はざる可し 

陸に在ては既に平壤を略取せられて日軍今や破竹の勢を以て進みつゝあれば不日にして九連城も守を失ひ奉天府亦次いで陷らん海に於ては恃み切たる艦隊を撃破せられて最早や戰鬪力なければ日本は時を移さず要害の地を奪ひ直ちに北京城下に迫ることならん假令ひ此の如く迅速ならざるにもせよ日清戰爭の勝敗は大體に於て既に决定したることなれば是れより以後日本は恰も無人の野を進軍すると同樣にして四百餘州幾億千萬の民衆ありとても到底防いで防ぐ可らず滿清の廣き皇帝六尺の身を置くに所なからんこと期して俟つ可ければ苟も一國を成して其命脈を繋がんとするものは今日に於て宜しく速に和を請ふの外ある可らず明々白々の次第にして支那は定めて和議を申出づるならんとの説は如何にも尤もに聞ゆる所なれども我輩の所見は未だ然らず元來清國政府の組織たる頗る不整頓のみならず既に腐敗痲痺の境遇に陷り李鴻章の帷幄と北京の廟堂とは各その働を異にし李の是とする所も動もすれば中途に遮られて堂上輩の認可を得ざること多し其認可を得ざれば李に實施の權なきが故に唯堂上の眼を掩ふて種々の畫策を行ひ事後に至り虚妄を構へ粉飾を装ふて=に譴責を免れ來りしものなれば政略一貫せずして虚妄構造の盛なるは彼の政府に免かる可らざるの事情なるが如し左ればこそ平壤の戰にも支那が援軍を送らんとすれば充分の餘日ありしにも拘はらず二萬計りの軍勢を派遣して中止したるが如き察する所我軍の精鋭を知らざるにはあらで李が心底に任せざるの事情ありしが故ならん然かのみならず遥に前日に溯れば左まで國體を辱めずして媾和の策もありしならんに幾回か機會を失ふて看す看す今日の窮境に陷りたるも盖し李の力以て隨意に國略を左右すること能はざりしが故にして一概に之を老爺の耄に歸するは酷なりと云ふ可し然りと雖も事の發端は老爺の所爲にして直接に局に當るも亦老爺なるが故に幾多の失敗は悉く其一身の責に歸して遁る可らず是に於てか例の虚妄も亦一時を彌縫するの窮策にして樣々に外面を装ひ敗軍も大勝と報じて北京の廟堂を欺かざるを得ず現に彼の牙山に敗走したる葉志超に重賞を與へ再び平壤に派して大將たらしめたるが如き牙山の一戰も北京政府の耳には勝利と聞へたるや疑ある可らず此程李が平壤失敗の爲めに罸を蒙り黄袍を剥がれたりとの事なれども北京にては决して事實の儘に敗報を聞きたるには非ざる可し李が種々取繕ひたるが爲め其罰も黄袍剥奪位に止まりしものならん兎も角も虚誕=(ネの右に巫)妄は支那人の天性のみならず李に取ては自から必要もあることなれば今度の海戰に大敗したればとて其敗聞は次第次第に装を改め北京に達する頃には遂に變じて大勝利と爲り渤海灣の危急などは夢にも知らざることならん斯る状勢なれば李の内心に於て一身の爲め又國の爲めに萬々媾和の利を知るも公然これを口に發すること能はざるは我輩の鏡に掛けて明に見る所なり且つ又假令ひ多少の敗報北京に傳へられたりとするも彼の頑冥なる堂上輩が如何にして能く大勢の傾く所を看取するの明あらんや依然たる中華の尊大漢、深宮貴公子のまゝに老大したる親王大臣の流にして空しく大國の大を恃み相替らず放言漫語して日本人の邊を犯すは例の倭冦なり海賊山賊の類なりとて悠々、花鳥風月に戯れながら時に或は疳癪に乘して外寇退治の嚴命を下すことある可きのみ今事の了解を易くせんが爲め喩へて申せば彼等は我國の庸劣なる華族と同樣にして家令家扶の輩が樣々の私曲を行ひ内實既に身代を傾け盡し又不法の借財に訴へられて敗訴したる折柄、扨御家の経済向は====なりとて危急を告る者あるも主人公は平氣にして馬耳東風、數百年來の華族の家に借財などは如何樣にかして片付くならんと空頼みするその間にイヨイヨ執達吏を差向けられて強制執行に及び重代の寶物は無論座右の手道具までも引浚はれて始めてソレと氣付くものゝ如く濟ふ可らざるに至りて始めて濟はざるを悔ゆるは古今東西を問はず斯る種族の常例にして北京の堂上輩に至ては其最なる者にこそあれば今度の戰爭に就ても彼等が面縛して降を乞ふの塲合に至らざれば决して眞に敗軍の敗軍たるを知らず然るを未だ一發の砲聲を聞かざるに當りて如何にして彼等の神經を刺戟せんや請和などゝは以ての外として取合はざるのみか若しも今日を限りとして交戰を中止したらば彼より請和したるものにても猶ほ倭奴謝罪したりとて驕傲ますます募るや疑ある可らず左れば我國にては飽までも大兵を派遣し彼等をして面縛降伏せしむる迄は非常激烈の戰を戰ふて如何なる外國の仲裁あるも是れには决して頓着す可らず滿清の上下を苦むるだけ夫れだけ彼國將來の文明を益することゝ知る可し