「從軍夫卒の救護」
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時事新報に掲載された「從軍夫卒の救護」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
從軍夫卒の救護
今度府下の學醫數十氏相圖り從軍夫卒救護の事を發起して廣く天下に訴へたる其要旨は左の如し
從軍夫卒救護の要旨
數萬の貔貅海陸並び進み深く異域に入り
大〓は移されて廣嶋にあり海に陸に續々大捷を報し王師向ふ所殆んど勁敵無し今や我が恐るゝ所のものは特り疾病の我兵を犯すの一事あるのみ
試に古今の戰史に徴するに病に死する者は毎に戰に死する者より多し近くはクリミヤの役に見よ普佛の戰に見よ西南の變に見よ疱瘡、赤痢、窒扶斯、虎列剌等の惡疫が如何に惨毒を逞ふして其戰闘力を減殺せしや〓ふて爰に至れば毛髪爲めに悚然たるものあり抑も軍隊の衛生は我陸海軍の夙に黽勉〓理する所赤十字社も亦力を此間に致し毫も遺憾ある無し唯、夫卒の衛生に至りては僅かに其餘力之を救護するに過ぎざるなり
夫れ夫卒募集の事たるや一種の請負事業にして之に應ずるものは概ね平素衛生の何物たるを知らず飲食唯、其飽くを求め疾病の之に從ふを省みず若し一朝猖獗なる惡疫の其間より流行蔓延して終に我軍隊に及すあらば邦家の不幸是より甚しきはなし夫卒の戰時に必要なる固より言を俟たず糧食彼に依て繼かれ彈藥彼に依て輸せられ我が兵勇武なりと雖も糧食〓き、彈藥乏しきを告ぐるに至らば何を以て敵に對せん試みに野津師團長の報告を見よ糧食運搬の困難を云ふにあらずや大嶋少將の報告を見よ彈藥の欠乏戰闘を中止すと云ふにあらずや生等之を聞て私かに寒心に堪へざるなり
是役や地理、運輸に便ならざるが爲め遙かに數萬の夫卒を派出せしを以て之に適する衛生保護の如きも専ら之に從事するもの無きは亦巳むを得ざるなり是を以て夫卒の疾病に侵さるゝや茲に醫治に就く能はず空しく道路に呻吟するものあるに至る豈悲惨ならずや今にして之が救護の道を講ぜずんば其影響する所、得て料り知る可らざるなり
軍隊の衛生は備はれり赤十字社も亦力を致せり故に今日の急は唯、夫卒の救護にあり而も是れ一大事業、一人一個の力能く爲す所にあらず是れ生等が相謀り四千萬同胞に訴へ奮ふて此擧を賛翼あらんことを請ふ所以なり
此文面に示す如く夫卒に衛生の輕んず可らざるは猶ほ軍隊と同樣にして萬一傳染病等に罹ることもあらば其病毒は忽ち軍隊に波及して意外の障害を生ずるに至る可し現に在外の夫卒中には赤痢等に侵されたる者もありと云へば〓に豫防救治の方法を講せざる可らざるは勿論國内にての戰爭ならば隨處に人足を募集して曾て差支あることなく偶々病氣に罹るも一歩近邊に出づれば醫藥を得るの道もあり又は家に歸るも容易にして萬事都て便利なれども此回遠征軍の進む所は世にも稀なる不便の國土にして入用の人員は大抵皆本邦より伴はざるを得ず而して其實際に必要なるは殆ど兵卒に等しく軍器糧食等一切の運送は夫卒の任ずる所にして其運送力と兵士の戰闘力と兩々相俟て始めて功を奏するものにこそあれば彼等の病苦を憐むなど云ふ人情談を離れ單に算數の上より論ずるも夫卒等の病に罹るは軍隊の運送力を減ずるの不利にして直に戰爭に大影響を與ふるや明白掩ふ可らず然るに兵士の衛生治療は平生成規のあるありて完備せる上に赤十字社も與に力を盡すことなれども夫卒に至ては何分にも之を顧るの餘裕なきこそ遺憾なれ然かのみならず此種族の者共は常に攝養に無頓着にして生來の健康に依頼するの外別に疾病を防ぐことを爲さず又防ぐ可きの方法に乏しとあれば恰も自から病を呼ぶと同樣にして醫道の一方より見るときは救護の最も急なるものと云ふ可し左れば學醫諸氏の發企は國家の急に應じて其本分の仁術を施すものにして義擧中の義擧、我輩は之に大賛成を表するに躊躇せざると齊しく天下公衆に向ひ速に賛助あらん事を勧誘して止まざるものなり