「軍事公債募集の發令」
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時事新報に掲載された「軍事公債募集の發令」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
昨二十二日大藏省は明治二十七年法律第二十五號に據り軍事公債五千萬圓を募集する旨を
發令し利子は年五分にして價格は額面百圓に付き其最低を九十五圓に定めたり公債募集の
懸は我輩の切論したる所にして其これを急ぐは單に軍資の不足を推察するのみに非ず目下
經濟社會の風潮を視察し其毒害たる紙幣の氾濫を制する爲めには假令ひ差向き軍事上の必
要なきも募集の一擧以て市塲に餘る通貨を絞り取るの外に方略なきが故に特に之を促した
ることなり過日の紙上にも示したる如く日本銀行の支配する流通紙幣の高は昨年に比して
本年は一千三百餘萬を增し尚ほ此外に政府部内に久しく閑却したる紙幣も開戰以來の用度
に促されて世間に現はれたることならん其影響は自から商賣社會の事實に明にして掩ふ可
らず米價を始めとして諸色共に高直の端緒を開き此國家の大事變を眼前に見ながら商賣繁
昌の假相を呈して日本國民は軍事に狂するのみならず同時に商賣に狂し又投機に狂する者
の如し其狂亂の結果如何を尋れば唯徒に通貨の價を下落せしめて目下の國用に貴重なる正
金銀を外國に驅逐するの一方あるのみ左れば今回大藏省が來年を待たずして今日斷然公債
の募集に着手したるは此邊に悟る所ありてのことならん斷じ得て妙なりと云ふ可し但し此
發令に付き我輩の遺憾を云へば價格の最低を九十五圓と限りたるの一事なり大藏省に如何
なる明あれば九十五の數を適當なりとしたるや九十五を適當なりとすれば九十六も可なら
ん九十四も可ならん或は九十にするも八十にするも又百にするも妨なき筈なれども今回に
限りて從前の慣行を破り百と云はずして九十五と定めたるは經濟社會の人氣を察し昨今の
勢にて百圓の價格は覺束なしとの推測よりして兎も角も五圓の差を試みたることならん誠
に無益の沙汰なりと云ふの外なし公債募集とは政府が人民より金を借用することにして金
錢の貸借は商賣上の事なり其負債主たる政府に於て果して缺く可らざる資金の必要なれば
利子の割合即ち價格の高下は負債主の方より發言す可き事抦に非ず假りに世の中の金融甚
だしく緩慢にして富豪輩が私有金の用法に當惑する時節ならんには九十五圓と定めても競
爭の結果として百圓にも百圓以上にも申込む者ある可し九十五の數字不必要なりと云ふ可
し或は之に反して今度の五千萬圓を九十五と觸出したり今後尚ほ何千萬圓の募集ある可け
れば其時には必ず九十にも八十にも下ることあらんなど將來を見越して九十五圓をも尚ほ
高しとして之に應ずる者なからんには之を如何す可きや其時に至り政府は前言を取消して
更に最低の價格を低くするや事實に妨なしとは申しながら大政府の體面に對して美事に非
ず孰れの點より見るも九十五の制限は無益の沙汰にして多少の危險を含むと云ふも不可な
きが如し畢竟大藏省が商賣の思想に乏しくして純然たる金錢貸借の事にまで所謂御役所風
を裝ひ徒に心配して運動の不活溌を致したるこそ遺憾なれ我輩は飽くまでも價格の無制限
を主張して割合の高きも低きも都て天下の人氣に一任して經濟社會の眞相を見んと欲する
者なり
右の如く價格の制限は甚だ不服なれども既に發して今日假に取消し難しと云ふか姑く其云
ふがまゝに從ひ更に爰に我輩の所望は今回の募集をば極めて公明正大にして苟も小策を用
るなきの一事なり政府が外戰の爲めに公債を募集すると云ふ、國中誰れか不平を鳴らす者
あらん否な、我輩は字義の穩不穩を問はず之を評して國家榮譽の公債の名くる者なり左れ
ば之を募集するに眼中憚る所の者ある可らず從前の慣例に從へば大藏省が一面に公債募集
の公命を發しながら他の一面には都鄙の富豪に内談し又は竊に地方官に氣脈を通じて例の
説諭を試る等樣々に苦勞したることもあるよしなれども今度に限り决して左る小刀細工を
要せず國家の必要の爲めに全國に公債を募る、私金ある者は來れ、應募して其利益の厚薄
は汝等の自利心に訴へて競爭に一任するのみと片言以て十分なる可し然るを例の金融者輩
に重きを置き内々之を集合して喃々私語し甚だしきは日本銀行にて兌換券を增發して體よ
く世間の金融を助け右より資金を貸して左より公債を買はしむるなど朝三暮四の小策を行
ふが如きあらんには是れぞ天下の大計を誤る者にして我輩は其細事情までも注意して論駁
を憚らざる者なり公私共に秘密を許さゞるの今日萬々ある可らざることゝとは思へども既
往の事例に照らして念の爲め一言を殘し置くものなり