「奴婢の事/内官の事」
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時事新報に掲載された「奴婢の事/内官の事」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
奴婢の事/内官の事
朝鮮に一種のスレーブあり稱して奴婢と云う奴婢は世々持主の所有にして常に賤役に服し毫も財産所有の權利を有することなく昔時は生殺も亦た持主の自由なりしと云う現時も尚ほ賣買せられ貸借せられ或は讓渡し讓受くること恰も牛馬に異なる所なし
明治十九年井上角五郎氏の朝鮮政府に〓用せられて漢城周報に主筆たりしとき獨逸領事センブツシユ氏は井上氏と相互に提携して奴婢癈止の論を唱へ其極同年同月朝鮮政府は一時に一切癈止する能わざる口實と爲し單に禁世役の命令を發したるのみ禁世役の命令とは奴婢は其人一身に限り以後は子々孫々に及ぼすを得ずとの趣きを命じたるなり然るに此發令も亦〓に實行に至らざりき。
奴婢は其由來久しく當朝李氏建國のとき已に其數甚だ多く建國の功臣にして其中より出でたるものありと云う〓に奴婢たる者は王命にて之を自由にするか又は他人の之を贖いて自由を得せしむる外は父又は母の奴婢たるときは其子は男女ともに自由を得ざりしに〓來に至り父母ともに自由を得ざりしに〓來に至り父のみ奴婢たるときは其子は母に從い母のみ奴婢たるときは其生める女子は自由なきも男子は父に從い自から自由を得て世役の意味は餘程減縮したり然れども其數は實に人口の幾分を占むるものならん
奴婢を分つて公賤及び私賤と爲す公賤は政府の所有にして種々の賤役に從事せり其中驛丁の數最も多し朝鮮驛站の法は大路毎一十里(朝鮮の)に一驛小路毎州里に一驛とし驛丁をこゝに置き〓時は公田を無税にて耕作し而して官用あるときは人馬を出して驛傳の事を扱わしむる驛丁こそ公賤の種類にして京城其他府州郡縣の官妓はみなこの驛丁の家属より撰ばるゝものとす國王は功臣に奴婢を賜うことあり地方長官は奴婢を人民に拂下ぐることあり又官妓等は常に〓客の爲めに一身を贖わるゝことあり此身代金は政府に上納せらるゝものとす
朝鮮にては罪重きものゝ家族は奴婢とせらるゝことあり現に金玉均氏の妻と其女子とはこの奴婢に落とされ其女子は他の爲めに身を贖われたりと聞きぬ婦人にして醜行あるときは奴婢とせらるゝを常とす此等は皆な公賤として地方官廳に使役せらるゝを〓例とす
私賤は一己人民の所有にして其數亦多し明治十八九年頃一人の賣買は韓錢百兩より三百兩までありて妙齢の女子を最も高しとす昔日は兩斑の身分にて奴婢と〓ずるときは癈して庶人とせられしが今は然らず現に國王の孃にして〓和宮の母たる張氏も公賤の中より出でたることにて兩斑富有のものゝ之を妾となすは珍らしからぬ事なる
朝鮮にては内官とて王宮に給仕するものあり京城の〓洞〓洞は〓々大抵内官等の住居なり内官は孰れも睾丸を〓き去りたるものにして生來斯る不具の男子なりと云へども實は父母の其子を内官に爲さんとて出生後百日以内無惨にも蜘蛛の網絲にて睾丸を巻き締め〓に之を切り取るよしなり其數現在にては盖し二三萬人もあらんと云う大半は宮中〓に各宮各陵に奉仕し又は職を宮中に得る能わずして去て〓侶たるもの少なからず
宮中に給仕する内官にも門閥あり又内官の妻たるものあり然れども固より子を生む可きにあらざれば常に右の如き睾丸なき子供を養いて家名を相續せしむる〓いなり此内官の位高きは正一品に至り台監と稱し宮中にては知事と呼ぶ知事たる者は〓例十人以上十三四人の數あり
朝鮮の王室は政治上最上權の本源にして此權力は常に外戚と内官との分有する所と爲り外戚全盛のときにても内官には自から實權の大なるものあり今その一例を擧げんに朝鮮にて政治上尤も權力ある地方長官を任免するに吏〓〓〓は一年兩度の都目に新任すべき長官の候〓者三名を書き列ねて之を國王に奏聞する慣例なり扨此三名の人撰は固より外戚の指示する所なれども三名の中に就き國王が一名を撰み定む、之を落點と云う其落點は實は内官の手に出ること甚だ多し
明治十七年十二月金玉均内亂のとき同氏等の改革案中に「人才を登庸し斑常内外を區別せず官に就かしむ」と云へる内外とは内官外官と區別せざることにて金氏は内官を癈止する意見なりしと云う