「新領地を御するの方針如何(第三)」
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時事新報に掲載された「新領地を御するの方針如何(第三)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
逸田樓主人稿
支那人に西洋文明の基礎たる形態實學を採用するの素養なきことは前既に論じたり尚ほ支那人が到底、西洋文明を採用すまじと云ふに就ては前記ウェード氏の説あり云く
支那人の知覺力と其天性及び推理方法とは全く併行せざるなり支那人の情操は曾て或る支那の經世家が余に語りし言葉を以て充分に代表されたり云く我々は西洋の機械は採用す可き所存なり然れども我々の舊慣及び我々固有の道コは之を保持す可しと之に反して支那人よりも敏捷なる日本人は甲を有せざれば乙を有すること能はず西洋文明の機械は其土臺に或る所の西洋文明思想の結果なりとの次第を明に見抜きたり斯れば支那が西洋文明の思想を採用せんとするの企は常に其舊慣故例に固着し頑として動かざる氣風の爲めに破られたり彼の黴の生じたる水雷艇は此次第を證明して餘りある者なり支那政府は機械製造所を建設し之を統轄せんが爲めに歐洲風を利用するを〓として夫れより以上は曾て西洋文明を採用せず彼は斯の如くすれば西洋文明を腕一杯の先きまでに喰止め置きて其中より唯己の欲するものだけ抜取り得可しと心得居るや疑ふ可くも非ず文明思想を排斥する結果の一例は國内の運輸交通の不便即ち是れなり云々
西洋文明思想の全體より生ぜし一部の結果たる機械製造所を建設し軍器を製造して西洋の「洋鬼」に抵抗せんとする支那の所業は老大の豚が猪の牙を貰ひ受け己の齦に植ゑて直に其猪に立向はんとするに異ならず勝を制せんこと思ひも寄らず偶々以て其心の淺薄なると無計算なると其根性の横着なるとを示すに過ぎざるのみ水雷艇を買ひたりとて之を保存し之を用るの法を教ふる所の西洋文明思想の一部たる形態實學に通曉せざれば寶の持腐れたるを免れず兵式は歐洲風に化したりとするも其兵士、兵器、兵糧等を運送する機械は殆んど皆舊來の古船と大八車なりと云ふが如き左る優柔不斷、半熟の計畫にて何事の擧る可きや生兵法は大疵の基たるのに又ウェード氏の説に云く
若しも日本人が五十年前に支那を征服したらんには或は滿州政府の王朝を亡すのみに止まりしならん如何となれば當時は西洋文明に抵抗するに於て兩者、感〓を同じふしたればなり然れども今や日本は則ち西洋文明主義に改宗して其熱心なる主張者たることを示し日支の間には支那と世界の一切諸國との間に存する所の〓〓ほど大なる懸隔を生じたり二百五十年前、歐洲人が明政府を〓滅したる時に彼らは支那の思想と〓〓とをば殆んど其全體を擧て採用し〓で支那人に對する統治權を維持したり余は滿州人が幾多の支那の舊慣故例をば其まゝに棄置きながら獨り辮髪の制規をのみ強行したるを觀て常に愕然たりしことなり然れども此制規は支那思想を激昂せしめたる唯一の箇條なり要するに滿州人は孔孟の教を採用して以て支那に歸化したる者と云ふ可し如何となれば此孔孟の教こそは四百餘州幾多の異人種をば支那と稱する一團體の下に結び付けて一政府に統轄せしめたる所の鎖なればなり然るに日本は支那の文明より身を脱却して西洋の文明主義を採用したり五十年前には日本の支那征服は唯、支那政府の代變りをのみ意味せしならんと雖も今は則ち全世界の根軸を震動する所の大破裂を意味することなる可し
眞にウェード氏の説の如く滿州人は支那に歸化したるものにして是は清政府のみに非ず元も亦然り孔子を加封して大成至聖文宣王と爲し蓋聞先孔子而聖者、非孔子無以明、後孔子而聖者、非孔子無以法と詔したる者は元の武宗皇帝なり例へば滿州人が支那に歸化したる成跡の軍事上に現はれしものに就て論ぜんに同氏の言に
支那人が兵馬の事を賤み嫌ふの氣風は孔子の教より來れり抑も孔子が暴行を非難するは他に對して不コ義なるが故にと云ふよりは寧ろ當人の品位を落すが故にと云ふに在り孔子の教に據れんば人若し汝の面に唾することあるも之に仕返しするは見ともなしと云へり又怒を發する勿れ發すれば先方の感應を害するより己の心に不愉快を與ふるの損あるが故に悪しと云へり余は或る支那の生徒が同窓の外國生徒に向て競漕は品格を落すの所業なりとて痛撃したることを知れり盖し孔子が柔和認辱の旨を唱へたるは外面に嚴然たる威貌と内部に端然として動かざる精神とを養成せんが爲めにして彼の國人中教育ある者に就ては稍や其風采の見る可きものあるが如し左れば今日の支那人は孔子の教を遵奉して身に得たる所の威儀精神を放擲し簡易活發以て文明の門に入らんか、但しは千古金玉の教を死守して遂に斃れんか、危急の塲合に迫りたるものと云ふ可し
近來に至り種々の事情が支那人をして外國の事に何程かの注意を與ふるの止むを得ざらしめしは事實なり千八百六十年に起りたる英佛同盟軍に向ての戰爭露國の間斷なき侵略、佛國が近頃試みたる攻撃及び日本の懼る可き姿勢は幾多の支那先進家をして稍、事局に注意せしむるに至りたり千八百六十年戰爭第一の結果は北京に總理衙門と稱する洪大なる外務省を生ぜしめ〓務官吏等が實際に世界の事情を知らんと盡力するに至りしこと是れなりカトゾン氏は是等の官吏を以て他の諸省より?集めたる餘物の團體なりと冷評したるに拘はらず余は總理衙門に自から人物あるを知ると雖も國中全體の氣風は諸外國人を見て堪ふ可らざるの所の厄介物と認め之を忌み嫌ふて擯斥するのみならず智識に於ても諸外國人は中華の人に對して遙に下流に在りと信じて疑はざるもの此々皆是なり
中國が諸外國に卓絶したりとの見識は彼の多年來、外國と支那との間に爭を成し來りたる叩頭問題に於て見る可し過去數百年の間、支那に於て重もなる外交の問題たりしものは諸外國の代表官は支那帝に謁見の折り叩頭の儀式を爲す可し即ち詳言すれば三度び跪き九度び地上に額を叩く可しと主張したる中華政府の申條なり英人は誰一人として此儀式を爲したるものなしマカートチー卿は千七百九十三年に於て片膝を突きたり然れども叩頭は決してせざりし千八百七十三年余を始め五人の英國代表官が支那帝に謁見せしとき我々の中には其謁見の塲所が屬邦の使者を受る所の室なりしとて大なる不滿足ありたり
右ウェード氏の所説に據れば孔孟の教は本來、残忍にして而も卑怯なる支那人をして言を威儀に托して軍國の事を等閑に附し唯徒に外國に對して傲慢無禮なるに至らしめ又二百五十年前、四百餘州を一統して辮髪の制度をさへ強行したるほどの猛烈政府が孔孟の教を採用して支那に歸化せし一大失策の爲めに次第々々に軟化して終に今日は勝者が被勝者の爲めに勝たれたる姿に陥り外敵を防ぐこと能はざる悲境に到りしの事實を見る可し左れば我輩は今回我國が我新領地の人民を統治するに就き大に鑑みる所ある可きを信ずる者なり
正誤 昨日の社説中善家必先知之の家は〓