「威海衛の全勝」
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時事新報に掲載された「威海衛の全勝」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
威海衛の全勝
威海衛と旅順口とは渤海灣の鎖〓にして〓國の頼み切つたる要害なりしに其旅順口は〓に我軍に略取せられ今〓威海衛に於ても海陸ともに全勝を占め得たる大快報に接せり開戰以來毎度の戰勝一として見事ならざるはなく殊に旅順を一擧に〓落せしめたるが如きは世界の耳目を驚かして正しく勝敗の〓命を制したるものなりしかども戰爭の大小より之を云へば今度威海衛の全勝たる實に最大の出來事にして日本國民の喜びは殆んど極點に〓したるものと言わざるを得ず蓋し旅順は堅固無雙に相〓なけれども當時我海軍は局外の援助を與へたる迄にして陸戰の一方を主となせしに威海衛に於ては彼の北洋艦〓と共に水陸力を併せて有らゆる防禦を施したる要處なれば我も海陸一致して非常の戰を戰わざる可からず曩に黄海の海戰に於て彼我の海軍の勝敗は〓に證明せられたれども敵は猶〓定〓〓〓以下の堅艦を擁して機械上の戰闘力は敢て我に讓らず若しも〓に我海軍をして之を使用せしめたらば勝敗その所も轉ずるに足る程なりしが故に我輩は世人と共に山東岬角の攻伐に就ては〓して無〓作にあらざるを慮りしに果せる哉我陸軍の新〓は容易に砲薹を占領せしも敵の艦隊は猶ほ劉公嶋日嶋の邊を固守して頑固なる抵抗を試み殊に灣口の防禦中々堅固にして攻撃の〓動自由ならざりしが我〓死の水雷艇は此間に出入して年頃熟練の伎倆を〓い〓に日本國民の〓〓に忘るゝこと能わざりし定〓を始めとして以下數艦を沈〓せしめたると共に我艦隊の〓撃ますます〓なりしより敵將丁汝昌も之を防ぐに堪えずして軍艦砲薹を併せ武器一切を献じて救命を乞うに至りたりとは古今に類なき大勝利にして手の舞い足の踏む所を知らずとは正に今日の事なる可し扨我海陸軍の〓〓にして支那の到底敵す可きに非ざる次第はいよいよ確實となりたる上に降參の敵艦は鎭〓その外砲艦を合せて十餘隻もあり且つ沈〓したる定〓その他も〓々引揚げて用るに足るべく是れ皆我戰闘力を〓加する所以のものなれば最早此上は歐洲の〓國と雖も敢て恐るゝに足らず〓んや敗餘の支那の如きは一蹴の勞に〓ぎざるが故に直ちに長〓して北京を衝くは恰も順序に似たれども我輩の所見を以てすれば事爰に到らざる前に支那も此回の報〓に〓を覺して大に〓和を〓ぐことならんと推察せざるを得ず〓日我國に使して〓去を命ぜられたる張〓等は此程〓廷より一旦歸國に促されたる由なれども更に全權を委托せられて折〓すか然らざれば一歩を〓めて使〓を親王等に命じ至〓日本の使命を承けて降伏の實を表するか兎も角も〓和談の意外に捗取る可きは殆んど疑わざるものゝ如し左るにても例の腐敗を極め混雜に取紛れたる支那政府のことゝて猶ほ躊躇して手〓き處置に出づ可きや餘りに法外なる想像は我輩の及ばざる所なれども十中八九は〓局に〓寄りたるものとして蓋し〓わざる可しと〓量する者なり