「ニカラガ政府の強硬戦略」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「ニカラガ政府の強硬戦略」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

〓〓の〓〓〓〓に據れば中央亞米利加のニカラガ國は〓〓と〓〓〓在の英國領事ハツチ氏を故なく國外に放〓したりとの〓〓以て英國政府より〓談を受け償金として一萬五千磅を要求せられたれども中中容易く其要求に應ずるの氣色なきにぞ英國は示威〓嚇の目的を以て巡洋艦二隻を〓〓したり然るにニカラガ政府は尚ほ頑として屈服せざるを以て遂に右の軍艦は最後の手段として同國の要港コリントを封鎖し續て陸戰隊を上陸せしめて〓〓を〓〓したり是に於てか流石のニカラガ政府も最早や此上に抵抗の無用なるを悟り英國の軍隊がコリントを引上げたる後十四日間に必ず償金を支拂ふべしとの旨を申出でたりと云ふ其後の模樣は如何なりしか未だ知るを得ざれども我輩は此事件に付き理非曲直の問題は別にして兎に角に小弱見る蔭もなきニカラガ國が世界第一の強國たる英吉利を相手にして實際自國の都市を占領せらるるに至るまで抵抗を試みたる其忍耐と度胸とに感服せざるを得ず抑もニカラガは人口僅に三四十萬の小國にして海軍には一隻の戰艦なく陸軍とても現役豫備役を合せて漸く一萬餘人に過ぎず此■(くさかんむり+「最」)爾たる共和國が腕力の爭に英國を敵とするは所謂「螳臂當車」の喩と一般にして斷じて勝利の機會なきは三尺の兒童もよく知る所なり到底敗るるの外なきを承知しながら頑然最後切迫の塲合まで強硬の政略を固守するは如何にも愚なるが如くなれども其實は决して愚ならず今度の一擧固より痩我慢に相違なしと雖も彼の強大なる英國をして我れを壓制するには兎に角に軍艦を派遣して封鎖を宣告し要港を占領する等の非常手段を實行せざる可らずとの事實を悟らしめたるの利益は全く此痩我慢の賜なればなり若しも然らずして最初英國より要求を申出したる時に到底自家の力の足らざるを計り戰ふも勝利の見込なしと斷念して一も二もなく其要求に應じたりしならば談判は誠に平穩無事に落着したるに相違なからんなれども一方に於て紛爭の敵手たる英國は勿論、其他の諸國も事の有樣を傍觀してニラカダの意氣地なきに一驚を喫するは必然にして同時に「彼れは誠に與し易きのみ少しく威を示して恐喝するときは何事にても唯命是れ從ふ者なり」との觀念を起して自今一切の外交問題に就き其國の利益權理は恰も度外視せられて頼る者なく幾歳月の後に至るまでも物に觸れ事に當りて常に諸外國に輕侮せらるる其損害の〓る可きは一時の封鎖占領などの苦痛に比して同日の談にあらざる可し或は到底屈服することに定まりたる上は國土を占領せらるるが如き汚辱を蒙らざる中に潔く讓歩して國の名譽を全ふするに若かずとの説もあらんかなれども愈よ最後の塲合まで持耐へて實際の壓力に遭ふて挫折すると未だ立合ふまでに至らずして敵の權幕に辟易し只管無事に局を結ばんとするものと孰れが果して國の名譽を損すること多きや我輩をして云はしむれば後者こそ却て卑怯未練の擧動にして國の體面を汚辱すること最も甚だしきものと斷定せざるを得ず况んや戰の勝敗は時の運に在り敗者必ずしも末代の耻に非ず事の行掛りに由ては自から敗北を期して戰ひ果して敗して然る後に和を講し由て以て自國の榮譽利益を繋ぎ止るの事例さへ少なからざるに於てをや我輩はニカラガ國の小〓を憐むと共に其國人の勇氣と其外交官の機敏大膽とを賞讃する者なり