「避病院の設置に就て」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「避病院の設置に就て」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

避病院の設置に就て

在外軍隊の引揚と共に虎列剌病毒を輸入して内地に其毒を傳播す可きは必然の成行にして現に今日に於ても關西地方にては僅に一二の歸航者が病毒を齎らして之を傳へしより次第に蔓延の徴候ありと云ふ當局者に於ても豫め此事あるを察して臨時檢疫所を設置し嚴重に消毒の法を施して病毒内侵の豫防に盡力する由なれば其効能の大に見る可きものあるは盖し疑なかる可しと雖も元來虎列剌の毒は目にも見えず手にも觸れずして傳播の力を逞ふするの常なるが故に臨時檢疫所の装置完全なるにもせよ微塵も毒を殘さずして防禦し盡す可しとの安心は決して出來難し學醫の説にも本年の盛暑より秋涼の候に掛け必ず多少の内侵は免れざる可しとの豫想なれば今より之に對するの方法を講じて充分に警戒を加へ都府市街の如き人口多き塲所に注意す可きは無論取り分け東京は全國の大都會に位すると共に其禍を蒙ることも亦大なる可ければ特に之に備ふること目下の急務なる可し就ては避病院を設置するは差向きの肝要事なれども從來の避病院は其構造如何にも粗末にして内部の〓苦しき有樣は一見、先づ不愉快を感ずるばかり且つ其往來不便にして途中に患者の苦痛も甚だしく下等の貧民なれば兎も角も苟も中流以上のものは迚も之に堪へず人々の入院を嫌ふも誠に尤もの次第なれば今回は新に清潔なる家屋を築造して患者をして心安く入院せしむるの工風專一なる可し然るに爰に差向きの困難は位置撰定の一事なり單に便利上より云へば市の中央に設くること至極適當なれども避病院の設置は市民多數の嫌忌する所にして中央は扨置き塲末の町村にても種々の故障を生じて容易に許されず去り迚遠隔の土地は患者の運搬に困難多くして從て防禦の上にも緩慢の〓あり何れにしても都合の宜しきを得ざるは當局者の常に當惑する所なり依て爰に我輩の一案を提出すれば鐡道を利用して凡そ十分乃至十五分間に到着すべき便宜の塲所を卜し四面無人の地に病院を新築するの計畫こそ極めて便利にして又尤も安全の法なる可しと信ずるものなり患者の爲めには特別の列車を備へ停車塲も得に新設して發着共に一切他人と關係を絶ち以て病毒傳播の危險を豫防すること肝要なれども此事たる敢て六ヶ敷ことに非ず現在の處にて府下に接する鐡道は官線の新橋、日本鐡道の上野、甲武鉄道の三崎町、總武鐡道の本所あれば是等の線路を利用して東京市の人家を去ること凡そ二三里の地を求むれば適當なる塲所を得ること決して難きに非ず果して此計畫を實行するときは避病院は市を隔てゝ安全至極の地に在りながら實際は市中の新橋上野三崎町本所に建築したるものに異ならず或は現在の鐡道を其まゝ利用す可らざるの事情もあらば之を延長し又は支線を造りて尚ほ深く市中に入るも可なり又或は在來の線路にて差支もあらば全く獨立して病院の専用に新鐡道を敷設するも可なり僅々數哩間の敷設、擧手投足の勞にして其經費とても敢て莫大の金を要するにも非ず要は只豫防の効力如何に在ることなれば苟も其方法にして適當なりと認めたる上は斷然取りて行ふ可きのみ若しも然らずして徒に位置の撰定に苦しみ際限もなき苦情に妨げられて果ては止むを得ず不便利と知りながら塲末の地に新築することゝもならば假令ひ其病院の構造は完全なるも市中の病人が釣り臺に載せられて夏の日に照らされ秋の風に吹かれ人足の足に任せて遠方に擔ぎ行かるゝ其苦痛は正しく地獄の路に異ならず其苦痛の有樣を傳へ又傳へて遂に病を隱蔽するの悪弊を生ずるは無論、隱蔽は即ち蔓延の媒介にして其慘毒測る可らず果して然らば今回非常の計畫を以て臨時檢疫所を設置したる其効力をも空ふするに至る可し我輩が東京市の避病院に鐡道の要を説くも全くに消毒の効を全からしめんが爲めにして文明の世界に文明の利器を利用せんとする微意のみ